のれんを出して、水をうってから、ミソノは背筋を伸ばした。
筋肉はゆっくりとしか伸びず、一息つくとようやく落ち着いた。
70をこえたミソノは、そろそろ“潮時”を考えてもいた。
斜め向かいの接骨院には自転車や買い物グルマが止められている。
その横のクリーニング店はいつものことであるが
開いているのか閉めているのかわからなかった。
正面まで行けば、電気がついているはずだ。
めっきりと行き交う来客の少なくなった商店街は
昼時だというのに人影はなかった。
「おばちゃん、ちょっと早いけど、ええか」
自転車に乗った工員服の若者が
横に立っていた。
「ええよ、ええよ入ってちょうだい」
ミソノはバケツをもって中へ入ろうとした。
「じゃあー、行ってくるわ」
二人が入ると同時に靖男が出てきた。
「あんた、財布はちゃんと持ってるかい」
靖男はジャンバーの胸元を押さえてから頷いた。
「おっちゃん、どこ行ったん」
ミソノは豚玉をかき混ぜながら男を見た。
「買い物や。あれが唯一の仕事やさかい」
かき椀の取っ手が緩んでいるのを気をつけながらミソノはかき混ぜ続けた。
「最近は残業もなくて、あかんわ」
男はそう言いながらビールに口をつけた。
客は一人だけだった。遅い昼食を済ませてから
時計を見た。2時半である。
(そろそろ、帰ってくるかな)
コーヒーを入れてからいつものようにテレビの前に座った。
靖男は昨年までは店を手伝っていた。
しかし、動作が緩慢になってきたこととおぼつかない足取りや
小刻みに震える手では、危なっかしくなっていた。
仕事を手伝わなくなったのは常連客の一言だった。
「ヤッさん、このソバ、ソースがからんでないで」
目も悪くなってきたんとちゃうか」
靖男はミソノより8つ年上だった。
以来、店のことはミソノが一手に引き受けた。
しかし、材料の買出しは昔からのなじみの店へ、靖男が行った。
3kmぐらいだが靖男は自転車で
片道小一時間はかかった。
昔ほどは仕入れる必要はなかったが、毎日通い
気晴らしにもなるはずだ。
靖男は白衣を着て出て行った。
「あんた、悪いけど白衣姿でうろうろされたら
店のイメージが落ちるさかい普段着で行ってや」
ふらふらと自転車で往来する靖男がいるとわかれば
それでなくても暇な店、ますます暇になると考えて
ミソノはそう言った。
それからは、普段着で往復するようになっていた。
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「ごめんよ」
商店街の理髪店の奥さんだった。
「ええから、ええから。何もいらんで」
ミソノはヨーカンを切分け、お茶を出した。
「うち、閉めることにしたわ。もう年やしな
息子のとこへ行くことにしたわ」
80を過ぎて、散髪屋をやっている夫婦だ。
「そうなんですか。何年商売してたんですか」
「昭和22年からやから、60年になるかな」
また、商店街の灯が消える。ミソノはため息が出た。
終戦で帰ってきた沖縄は働くところがなかった。
内地に出てきた主人は理髪店で働き
独立したのは26歳だったと言う。
「だけど、あの時代に店をもったなんて
すごいですね」
「家賃も安かったからね。おかげさんで儲けさせてもろてー
はて、あの時の金はどこいったんやろ。ハハハハハ」
笑う顔は入れ歯がむき出し、しわだらけになった。
「あの散髪屋、まだやってるんやな。古いし汚いし
髪洗うときなんか、給湯器やし、おまけに毛むくじゃらの腕で
やるからな…」
若い客はそう話していた。
なるほど、台所に備え付ける給湯器は奇異に映るだろう。
最新の設備をもたない散髪屋は流行らないわけだ。
ご主人の毛深さはミソノも知っていた。
若いときは筋肉のついた腕でさほど気にならなかったろうが
高齢になった枯れ木の細腕に白毛の混じった
毛むくじゃらの腕は、いかにもみすぼらしかった。
働き続けてきた腕は、尊敬にこそ値するもので嫌悪の対象になるとは
ミソノには、とうてい思えなかった。
若者たちの軽はずみな言動には、怒りさえ覚えていた。
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いつの間にか5時を過ぎていた。靖男はまだ帰らない。
さすがのミソノも心配になってきた。
「もしもし、うちの人、そっちに行ってないかい」
「あらお母さん、ううん来てないけどどうかしたのですか」
5時間にもなろうとしているのに、靖男が帰ってきてないことを話した。
「じゃあー私、ちょっと見てきます」
息子・雄治の嫁、倫子はそう言ってくれた。
「おかしいわね。お父さんの行くだろうと思われる道を
探してみたんだけど見つからなかったわ」
お好みを焼くミソノのそばへ来て、息を切らし気味に
倫子は言った。
客は怪訝そうな顔で二人を見た。
孫を連れて息子が入ってきた。
「おやじ、まだ帰ってこないか」
「あ、あんた。まだなんよ。警察に届けようか今話してたとこなんよ」
「警察、ちょちょっと待ってや。早すぎるでそれは」
こういうときに限って、忙しい。
ひっきりなしに、客は出入りした。
倫子と雄治は自転車でまた、探しに出て行った。
孫は奥の間でテレビを見ていた。
ジリリリリージリリリリー
電話が突然なった。
お好みのへらを返してから出た。
「おーい、倫子に 車で 迎えにきてくれって 言うてんか」
靖男のゆっくりとした声が耳に入ってきた。
「あんた、今どこにおるん」
大きな声に客はいっせいにミソノを見た。
「えー、○○病院の近くやけど…」
靖男の物言いにミソノはいらいらしてきた。
すぐに二人の携帯に電話をした。
倫子が車に自転車をつみ、靖男は何食わぬ顔で帰ってきた。
「あんた、どこうろついてたん。今までなにしとったん。
心配するやんか」
怒気のこもったミソノの声にも
靖男は頓着しなかった。
「いつものように市場で買い物を終え、帰ろうとすると
足が動かなかった。痛くてな〜。
自転車を止めて足をさすったり伸ばしたりしてみたが
よくはならんかった。
仕方がないから、公衆電話を探してみたんやけどどこにもないんや。
ようやく見つけたのが○○病院の横やがな」
(毎日、通ってる道ならどこに公衆電話があるか
見てなかったんか)
のど元まで出かかったがグッとのみこんだ。
「今、何時だと思っているの」
「5時ぐらいちゃうん」
もう9時になっていた。あきれ果てて次の言葉が出ない。
「おかん、ええやんか。無事に帰ってきたんやから」
雄治の物言いは靖男に似ていた。
「もう、明日から買出し行かんでもいいからな」
ミソノの言葉に靖男はポツリと言った。
「なら、わし明日から、何したらええねん」
そう言うや、フラフラと奥の間へ歩いていった。
それからも、靖男は買出しへは行った。
通話専用の携帯電話を持たされていた。
足の痛みはなかなかよくならなかった。
(了 :2007年5月27日)
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