美津子は最近よく眠れない。
4時には必ずといっていいほど、目が覚める。
さすがに往来を行き交う人はまだいない。
カーテンの隙間は白みかけていた。
窓を空けると、凛とした空気が入ってきた。
自販機の前には男がかがみこんでいた。
タバコでも買っているのかと思ったがその男は
隣のジュースの自販機へも移動していく。
(取り忘れたおつりを探しているんだわ…。
考えてみたらタバコはまだ、時間が早いもんね)
近くの公園で暮らしている、男かもしれない。
商店街を南北に貫く道路の角で
“みます屋”は、戦前からタバコ屋をやっている。
駄菓子”を売る傍ら、タバコも売っていた。
子供がめっきり少なくなったうえに、駄菓子は売れなくなってきていた。
今では、シャッターを閉め、道路に面した部にタバコと
ジュースの自販機を4台置いているだけだった。
美津子は夫には申し分けないと思いながら、結婚と同時に
この家へ来てもらった。
それは一人娘の美津子が出した、最低限度の条件。
口数が少なくまじめな夫は両親を
大切にしてくれ、子煩悩だった。
定年後も、会社から嘱託で雇われ65歳まで勤め上げた。
残業も率先してやっていたので、年金は結構多い方だった。
そういう意味では、申しぶんの無い亭主だ。
夫は、お酒は人並みに飲んだが、強い方ではない。
その夫が75歳のとき、脳梗塞で倒れた。
ちょうど、美津子が出かけているときだった。
発見が遅かったのが“片麻痺”を増幅させ、
右半身の昨日は不随状態になってしまった。
ろれつの回らない口は、余計に口数を少なくさせていた。
美津子はそばにいなかったことを悔やみ、せめて介護だけはと
夫中心の生活に切り替えた。
身体は大きいほうではないが、全体重をあずけてくる夫は重たい。
痩せ細っていても、トイレや風呂に入れるのは
かなりの重労働である。
娘はデイケアーやショートステイを進めてくれる。
美津子はかたくなに断ったが、近所の人たちの助言もあり、
少しずつ利用するようになっていた。
週3回のデイケアーの時は、孫が
遊びにやってくる。見るたびに大きくなっていく孫は
夫とは対称的だ。
「もうアヤはね、一人でトイレにも入れるんだからね」
ついこの間までは、お尻を拭いてやっていたのにと懐かしくなる。
(へ〜、そんなこともできるようになったの)
鏡の前で、ブラシで髪をとかしている孫を見て
改めて驚かされる。
先々月、ショートステイの体験入所を夫に勧めると
しぶしぶ、応じたものの、体験から帰ってきた夫は
「…よけい…老け込みそうや…
…話す相手も…いない…しな」
ポツポツと、言った。
夜中に徘徊する人の気配で眠れない。
耳が遠くなっている人とは話しが、弾むはずもない。
ショートステイに行くその日、
黙って車に乗り込んだが、眼は
(わしは、行きたくない)
と言っていた。
(あなた、ごめん。私だって息抜きが必要なのよ)
車に乗り込む夫の背中に美津子はつぶやいた。
やがて、娘夫婦が車で迎えにやってきた。
「お母さん、準備はできているの」
窓を開けたまませかす娘の後ろには
アヤが乗っている。
「おばあちゃん、早く早く」
夫をショートステイに預けて、温泉へ行こうと提案したのは娘だ。
日ごろの、介護疲れを癒してあげるという
ありがたい申し入れであった。
美津子は後ろ髪を引かれる思いを感じながら
車に乗り込んだ。
快適に飛ばす車窓には目もくれず、
アヤのおしゃべりは続く。やがて、うとうとしはじめた。
4時間ほどで日本海をのぞむ
ホテルへ到着する。
「わあー、よく見える」
股覗きをしながら、一人前にアヤは言う。
「お母さん、ひざは痛む?」
娘も散歩にかりだしたものの、美津子の足を気にしている。
履きなれていない靴だったが、美津子は首を横に振った。
幸い、砂の道はひざには負担が少なかったのも事実である。
テーブルには日本海らしく、魚の煮物や船盛りが並んでいる。
アワビ、ぶり、いかが、あぶれんばかりである。
竹の子やぜんまいの天ぷらもある。
「これ、おいしくない」
旬の竹の子のさしみだった。
あやには、竹の子の味は、まだわかりそうにない。
美津子は竹の子が大好きな夫を思い出していた。
―― 近頃では竹の子はさいの目に切ってできるだけ
やわらかく炊く。スプーンでそれらをすくい上げ、
時間をかけて噛んでいく。
ワカメやしいたけも細かく切って出す。
夫は満足げに、口を動かし続ける。――
「ほらお母さん。何、考えてんの。
またお父さんのこと?今日ぐらいはのんびりしたら」
「あ、ありがとう。おいしいわね」
どんどん成長していくアヤが、頼もしい。
明日の朝は、また成長しているんだろう。
いや、朝と夕方を比較しても、成長度愛が
明らかに違うのだろう。
竹林の中では朝、取りそこねた竹の子は昼過ぎには
もう若竹に成長する。あくが強くなる一方の竹の子は
取る時期をのがしたら、商品としては値打ちが下がっていく。
その横で太い竹は腐って代を変えるのである。
帰ったら、おいしい竹の子の煮付けを炊いてあげようと、
美津子は考えていた。
(2007年7月24日)
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