1
芳江の与えられた仕事は、研究者達の書いた書類を
データベース化することであった。
少しはパソコンに触ったことはあったが、
それはほとんど初心者のレベルだった。
ぶ厚い資料ファイルが、部屋いっぱいに並べられていて、
途方もない作業が待っていた。
博士課程を終えて研究するドクターたちは
達筆なうえに芳江には意味の不可解な文章ばかりである。
しかし、一言一句を写さなければならない。
読めない漢字も多々あった。
「そのときはね、アクセサリーの中の…を使えばいいよ」
自筆で書いた文字をスキャナで取り込んで表記する方法を教えてもらう。
「あーそうなんや。これは便利ですね」
近くの人に聞いたり、あちこち操作しながら
ひたすら、データベースの作業は続いた。
(またや、何て読むんやろ)
いつもながらの達筆な文字を拡大鏡で見る。
その時、右の方に何かを感じた。
(ン、…)
そこには早苗が立っていた。
彼女はすぐに向こうへ行ってしまった。
(ハテ、何か用でも…まいいか)
芳江は視線をディスプレーにもどした。
2
横で働く早苗は娘と同じ年だった。
芳江も娘のように思って可愛がってきた。
「お母さん、これね…」
かっては、仲の良かった同僚だ。
最近は早苗はあまりしゃべろうとしなかった。
わからないことを聞こうと尋ねると
だんだん邪険につっぱねる早苗がそこにいた。
各部へ届く郵便物や、送らなければならない
小包などを仕分ける。
電話で確認し机の周りは荷物でいっぱいだ。
芳江はパソコンに向かいながら、忙しそうに動き回る早苗を
視野の片隅に常に意識するようになっていた。
3
ノートパソコンの画面は細かな文字が見ずらかった。
薄くて、暗かった。
机の真ん中に置くことができないから、左におく。
姿勢が悪いうえに老眼がかかってきた目には
いっそうつらかった。
肩はこり、背中も痛く腰も足も痛くなる。
だから 時々、背中を伸ばした。
すると視線を感じ、あわてて姿勢を戻す。
明らかに見ている目があった。
「君が仕事をしなくて、あくびをしたりウロウロばかりしていると
言う人がいるんだがね」
芳江はあっけにとられて声が出なかった。
「もちろん、あがってくる仕事の中味を見たらそうじゃないことは
わかっているがね。まー、気にしないこっちゃな」
腹立たしさよりも、そんなことを告げ口する者を
あきれてしまい哀れにさえ思う。
「部長、それよりももう少し動ける仕事は
ないですか。ジッと座っているのも結構つらいですよ」
「だから、…。机の周りで立ち上がったり背伸びをして
適当に体を動かしてだな」
「そうすると、今回みたいにさぼっていると
言われますからね」
部長は眉間にしわを寄せた。
4
「あの娘があんなに“いけず”やったとはね。あんたも辛いやろけど辛抱やで」
帰り道、途中の市場で買い物をしていると同僚が話しかけてきた。
「だけど、結婚してるから“いけず”じゃないわよ」
芳江は同僚に笑いながら答えた。
我ながらそんな風に見られていたとは、まったくわからなかった。
自分では一生懸命やっているつもりだったが
仕事ができない、なまけ者の烙印がおされているのであった。
「私はしんどい仕事をしているのに、あの人は楽な仕事をしている。
あんな人とは仕事はしたくないわ。なんて、まるで自分が雇っていると
勘違いしているのよ、あの娘(こ)は」
同僚の言葉が胸に刺さったまま芳江は
家路についた。
3月に手術をして再復帰したら、少しは彼女の意に沿うような
仕事ができるかもしれない。
今は何を説明しても、わかってくれるはずはないと芳江は思う。
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