特別徴収


 和子のメニエル病は、さほど悪化せずにすんだ。
あれから一週間後の診察の日に、医師は淡々とした口調で言った。
 「再発のおそれはありますが、もう大丈夫でしょう。
しばらくは来なくてもいいでしょう」
以前なら素直にうなずいていたが、近頃では
(このお医者さん、いやがっているのかな〜)
なんて思っている自分に気づき、おかしくなった。


自転車からおりて家に入ろうとすると、文子がやってくるのが見えた。
エプロンの肩ひもがずれるのを、左手でおさえている。
 「あんた、知ってる。安さん出て行ったそうよ」
 (んん、安さん?‥誰??)
ようやく思い至った。
 「安さんって、あのおじさん?」

2〜3軒向こう隣に住んでいた安さんは、妻に先立たれ
一人暮らしをしている人だ。

 「聞いたところによると、病院代を払えなかったので
家で寝てばかりいたそうよ。見かねた民生委員の方が
世話して施設へ入れたとか言ってたわ」

安さんは若い頃は市場のテンプラ屋で働いていた。
タオルを頭にまいて、薄いシャツ1枚でコロッケやメンチカツをあげていた。
汗と油まみれの顔は、黒光りしていた。
客にはあいそが良かったが、帰ってきたらあまり、しゃべらない人だった。

お茶を注ぎながら、なおも続く文子のおしゃべりに耳を傾けた。
 「年金があまりなかったみたい。その中から介護保険や健康保険代が
差し引かれて食べるのも大変だったようよ…」
 「ふ〜ん。よく知っているわね。親しかったん?」
和子は感心しながら聞いた。
 「とんでもない、高子さんが色々面倒をみていたからあの子に聞いたのよ」

 「最近では家賃もとどこおっていて、不動産屋からも出て行くように
いわれていたそうよ」
しばらくの沈黙の後、文子はまた話し出した。
 「あの人の年金、5万円もなかったみたい。先に健康保険や介護保険が
ひかれるから、残った分で家賃を払っていたけど、しんどかったんでしょうね。
時々、食事を持っていっていた高子さん、
福祉事務所に行って民生委員を紹介してもらい
相談したってわけ」
あまり話しをしたことがなかった安さんだったが、和子は
ただ驚くばかりであった。

 「結局は生活保護を受けたんだけど、でも許せないのは
尼崎市よ。先に健康保険代をひくもんだからお医者さんの
お金が払えなくなったんだって。
何回かは診てもらえるけど、自費の分は払えないわけよ。
食べるお金もないのにどうやって病院代を払うの。
払えないから家でおとなしく寝るしかなかったのよ」
文子の声は少し震えていた。

 「自費って、どういうこと?」
和子の質問に文子は受け売りだと言いながら答えた。
 「安さんは肝臓が悪くて点滴をしてたみたいだけど、
2回目以降は1割負担でなくて全額負担になるわけ。
最初だけ1割で後は10割、どうやって払うの?」

保険料は先取りしておきながら使えない仕組みがあったとは、
初めて知った。
そういえば、あのとき医者は何回も来てもらっては
困るようなことを言っていた。
お金がある人は、いくらでも診ます。でも、ない人は診ることができません。
いつから、こんなことになったんだろう。

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 【ちょっと、解説】

後期高齢者医療保険(75歳以上の高齢者と65歳以上の障害者)は
特別徴収、つまり年金からひかれます。
市ではなく県が主体で行います。

年金額が少ない人は、特別な事情なしに納付期限から
1年6ヶ月間保険料を滞納すれば、
保険給付の一時差し止めの制裁措置があります。
保険証を取り上げられ、資格証明書が発行されれば
病院では全額を支払い、後で還付金として9割を返してもらう仕組みです。
年金収入の少ない低所得者への厳しいペナルティです。

現行制度では、高齢者に対しては資格証明書発行の対象から
外してきましたが、問答無用な冷厳なシステムとなっています。

「包括定額制」とは、「後期高齢者の心身の特性に相応しい診療報酬体系」を
名目に、診療報酬を引き下げ、受けられる医療に制限を設けるものです。
主な疾患や治療方法ごとに、
通院と入院とも包括定額制、つまり定額しか出ないことになります。

例えば、高血圧症の外来での管理は検査、注射、投薬などをすべて含めて
一カ月○○○円限りと決めてしまう方法です。

高齢者の3割程度は低所得者です。
医師にかかりたくてもかかれない、
生活すらままならなくなります。
一方では生活保護申請の引き締め、
年金の少ない高齢者はどうなるのでしょう。
         (2007年9月21日)


  
 

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