ぼっかけ


      1

 国家試験の勉強のかたわら、就職活動も避けてはとおれないものだ。
安定した収入を得るために洋二はかけずり回っていた。
 「まずは試験に合格することが最低限度の条件やな。
それから臨床を重ねることやな。経験を積み重ねんと、
試験に合格しただけでは金儲けはでけへん」
そんなことは周知のことであった。
まるで赤子に物言うような先輩方のお説教には心の中で、
洋二はベロを出していた。

 卒業式を待ちきれずに、国家試験が終わると、
翌日から洋二は働くことにした。
院長に頼みこんだのである。
あきれていた院長だったが、喜んで迎えてくれた。
もちろん試験に合格する自信があったからでもある。
 同級生たちは『試験がせっかく終わったんやから、
ゆっくりしたらええのに』と誰もが言い、そしてハネを伸ばしていた。

 「わしはもう年だからな、お金はそんなにいらないんや。
これからは若い者を育てるのが生きがいなんや。
これからの若者は大変やからな」
その院長の言葉にひかれてそこを選んだ。
一階が内科、二階が歯科そして三階に治療院があるのも洋二は気にいっていた。
院長の他に3人の先輩がおり、ベテランの女性が二人含まれていた。
 いざ入ってみると院長は自分の客をこなすのでいっぱいであり、
先輩方も指名の客があるので、忙しそうにしている。
横で針をするのを見たりすると客が嫌がるので、それもできなかった。

 新規の客が来ると洋二にやらせてくれる。
それも頻繁には来るはずもない。
出張が入ると、それは必然的に洋二の担当となった。
 「あんた、出張に行ってきてくれんかね」
受話器を片手で押さえながら、中山先輩がドアをたたいた。
 「ええ・もちろんいいですよ。どこですか」
コタツに入ったまま、中山先輩から受話器を受け取った。
 「はい、はい、行かせてもらいます。場所はどのあたりですか?」
 このへんの地理はまだ詳しくなかった。
近くの郵便局まで迎えに来てもらうことにした。
日本タオルとおつりをポケットに入れコートをはおった。
 「なんていう人なんや」
ひと仕事が終わって、控え室に顔を出した小村先輩が聞いてきた。
 「梅山さんとか言ってましたね」
少し考えていた小村は嘆息するように言いはなった。
 「そりゃ、梅山組みの事務所やで、気イつけて行ってきてや」
 「エ、ほんまですか。梅山組って“ヤーさん”の事務所なんですか」
 これまでにも市営住宅などへは出張をしている。
組み事務所が近くにあるなんてまったくそんなことは聞いていなかった。
今さら断ることもできない。
気イつけ言うてもどう気イつけたらええのか、わからない。

 (どんな人なんやろ…。入墨をしてるんかな…。
指はちゃんとそろっているんやろか…)
さすがに緊張してくる。さっきトイレに入ったばかりなのに、
また行きたくなった。青信号を確認しながら郵便局の方へと曲がる。
二月下旬の空気はまだ冷たい。白杖がやけに大きく響いた。

 「マッサージの先生ですか」
見ると、小柄な男が微笑んで立っていた。うす汚れた黄土色のマフラーをしている。
乾いた咳ばらいをして、また微笑んだ。年は洋二とかわらないように見える。
 「はい。すみませんね。わざわざ迎えに来てもらって」
 (なんや、普通の兄ちゃんやんか。いや待てよ、
こういう人に限って怖いんかもしれんな)
洋二は頭を下げながら、チラッと盗み見した。
手引きを申し出てくれたが、大丈夫と断って男の後に従った。

 大通りから駐車場の横の路地を入っていく。
狭い道はアスファルトが波うって歩きにくい。
路地を抜けると少し広い場所に出た。
日差しがあるのに路地を吹き抜けていく風はいっそう冷たい。
3軒目の家を彼は指さした。
 「あそこですよ、わかりやすいでしょう」
 普通の家と変わらないではないか。本当にここが組み事務所なのか。
梅山組の看板がかかっているわけでもなかった。
玄関脇の植え込みは背丈ほどに切りそろえられており、
かなり手がかけられていることがわかる。
両脇の家も向かいの家並みも、どこにでもあるような家ばかりだった。

 靴をキチンとそろえてから、招じられるままついていく。
スリッパも我が家のものとはまったく違う。
床暖房が効いており柔らかい絨毯の上に
レザーの革張りのソファーが、これ見よがしに鎮座していた。

 「ここで少しお待ちください」
そう言うと、隣の部屋に消えていった。
深く沈みこむソファーは座り心地は落ち着かない。
まわりをそれとなく眺めてみると、立派な装飾ケースの中に
人形やトロフィー.お酒がきちんと並べられている。
 (ホう〜、すごい。これって高いんやろな。見たことないのばかりや)
隣室からはさっきの男の咳こむ音が聞こえてきた。
 ふと、棚の上に目を移した。
そこには4台のテレビが置いてあった。
いや、それはモニターだった。
その横には見たこともない機械が置かれている。
洋二は立ち上がってモニターに見入った。
玄関まえや先ほど入ってきた路地、反対側の広い道路の向こうまで
各モニターで映し出されているではないか。
思わず息をのんだ。
 (ゲ、これって監視カメラやんか。
ちゅ、ちゅうことは、さっき入ってくるところもこれでわかるちゅうわけか。
ほ、ほんまに暴力団事務所やんけ)

 ガチャッと横のドアが開いた。悲鳴をあげそうになった。
あわてて、ソファーに腰掛けた。
シュウー。沈み込む静かな音が響いた。
 「お、あんまはん。待たせたな、
コーヒーでも飲んでもう少し待っててくれや」
肩幅の広い大柄の男が、首にバスタオルをまいてパジャマ姿で顔を出した。
髪は濡れていた。
呼吸が苦しくなってきたが、頭を下げてかろうじて『ハイ』と声を出した。
入れ替わりに、先ほどの男がコーヒーを持ってきた。
指先が震え、カップがガチャガチャと小さく音をたてた。


       2

 二階の和室には、八畳の間にフカフカのダブルの布団が敷かれていた。
暖房は暑いぐらいに効いている。
電話機が畳の上に無造作に置かれていた。
ユニットの物入れはあるが、生活感はまったくない。
 「じゃ、やってもらおうか」
 「はい、わかりました。まず横になってもらえますか」
声が震えないように、わざと低い声音を出した。まずは首からもみ始めた。
弾力性のない皮膚である。
 「あんまはん、どっから来てるんや」
 「え、あ、大阪です」
 「けっこう遠いの。なんでわざわざここまで来てるんや」
 (……ええやんか、人のことなど、ほっといてくれ)
 「ハ、ハイ。院長先生がいい人で修行になると思いましてね。
今月学校を卒業しますもので」
肩をもまれながら洋二の顔をチラッと見た。
なんか悪いこと言ったかな。まだ免許をもってないことが気にさわったんかなと、
気がきでない。
 「学校って、あんまはんの学校かい」
 「そうですよ」
ホッとしながら、声がうわずってきた。
 「兄ちゃん、年いくつなんや」
 「39です」
しばらく考えていた彼は、また口を開いた。
 「なんでまた、39であんまはんになろう思ったんや。今まで何をしとったんや」
 (かなわんな、そんなことまで詮索するんかいな)
 「え、いや、あのう。会社員でしたが目が悪くなってやめました。
それで盲学校へ行ったんですわ」
 「目が悪いなんてまったくわからんな、おたく。
そうか、苦労したんやな」
 「………」
なんと答えて言いかわからなかった。

 フカフカの上布団を注意してめくる。
腰も足も運動とは縁遠いように思われた。
いがいなことに、話好きな人だった。
ここは事務所として使っていて家は別にある。
さっきの男は東原といい、身の回りの世話をしてくれているらしい。
糖尿病でいつも倦怠感があるため運動もせず、食養生もしていないとのことだった。
緊張しながらもどうにかもみ終わった。
どこをどうもんだのか、あまり覚えていなかった。
帰りには、マッサージ代とは別に出張費を千円もらう。
 「ありがとう……ございました」
お礼もそこそこに帰ろうとした。

 「あんまはん、これ食べていき」
テーブルの上にはうどんが置かれていた。いなり寿司の小皿もある。
東原は向こうを向いて軽く咳ばらいをしてから、サランラップをめくった。
おいしそうな肉の匂いがしてくる。
思わずゴクリとツバを飲み込みながら、箸をとった。
 「どや、うまいやろ。このあたりでは昼はたいていこれや」
向かいでうどんをすすりながら、親分は講釈する。
 「これはな、牛すじとコンニャクを甘辛く煮たものなんやで。
ぼっかけ言うてな、一日1ぺんは食べんとおられん。
うまいか。そうやろ。
店によって味がちがうが、わしはこの店の味が好きでな」
 「はい、おいしいですね。なんともいえない味ですね。初めて食べましたよ。
ぼっかけって言うんですか」
 正直、それはうまかった。油味だがしつっこくなく、甘辛さは食欲をそそる。
そういえば、あちこちで“ぼっかけ”の看板を見た。
何の商売だろうと思っていたが、まさかうどんだったとは思いもしなかった。
緊張と興奮は完全にほぐれていた。

 翌日もまた電話がかかってきた。
東原はもう一人で来れるだろうと言いながら電話の向こうで咳き込んだ。
どこにカメラが設置してあるのだろうと見回したが、洋二の目にはわからない。
それにしても組事務所が隣りにあるなんて、周りの人はどんな気持ちでいるのだろう。
人事ながら気の毒に思える。
二度目は緊張もせず、施術を終える。

 そのうち週に三回から五回はよんでくれるようになった。
六日出勤して多いときには五日もよんでくれるのである。
さすがに自分の腕前が下手なんだと、自己嫌悪にもおちいることにもなる。
しかし、出張費は院長に渡すことなく自分がもらえるのだ。
あっというまに、ヘソクリが貯まる。
出張も悪くないかとなぐさめることにした。

 「昨日も電話がかかってきたんやで、よっぽど気にいられたんやな」
三月は卒業式で一日休みをもらった。
梅山組から出張の依頼があったが、誰も行けなかった。
院長はそう言って笑った。

 出張にばかり言っていると、いよいよそれは洋二の専門となった。
県営.市営住宅が密集したこの地域は、マッサージによんでくれる人が多い。
よんでくれた人が他の客を紹介し、洋二は朝から出かけることが多くなった。
昼時には必ずといっていいほど“ぼっかけ”をご馳走になるのだった。

 ぼっかけは、店によって微妙に味がちがう。
ちがう味を堪能しながら、マッサージで儲けさせてもらう。
そのうえ、チップもたまっていく。
卒業してすぐに、こんなことになるとは思いもよらないことだった。

     3

 「今日はどこまで行ってきたんや」
帰るなり点字の本を読んでいた小村が尋ねる。
 「28号棟の大竹さんとこです。友達もよんでくれて二人もんできました。
ありがたいことですね。ぼっかけもご馳走になりましてね」
 「大竹さんて、もしかして六階に住んでいる人かい」
 「そうですよ。よく知ってますね」
 「あの人は七和会の人やで。三年ぐらい前に旦那が殺されてな、
覚えてないか」
七和会、聞いたことがあるような、はてどんな会だろう。
 「ハアー、聞いたような聞いてないような。
それにしても、殺されたとはえらい物騒ですな」
はっきりしない洋二の返事に、小村はニヤッと笑った。
 「ほら、山田組と七和会との抗争よ。かなりドンパチやってな、
あの頃はこのあたりは大変やったんやで」
思い出した。暴力団抗争である。
新聞やテレビでは見ていたが、別の世界の出来事のように思っていたから
気にもかけていなかった。
 「でも、市営住宅ですよ。組事務所じゃないですよ。
それに女の人一人暮らしだし…」
否定するようにあわてて洋二は言った。
 「旦那が殺されてからは事務所はひきはらっているが、
影響力はまだあるみたいやな。
あの奥さん、彼氏がいるやろ、
あれが旦那の右腕やったやつやがな」
 「彼氏って、見たことないですよ」
顔色が青くなるのがわかった。
彼氏がいたのか。それ以上、言葉は出なかった。
それにしてもこの地域はなんてところだろう。
こんな狭いところに二つも暴力団事務所があるなんて。
何ということだ。その二箇所に洋二は行っていたのである。
 「ハハハハハ、心配すんな。かたぎの者には何もしよらんて」
胸の内を見透かすように小村は言うが、
所詮は人事だ。

 その日、大竹家には孫が遊びに来ていた。
可愛い姉妹である。
もみだした洋二のそばでおとなしく二人は本を読んでいた。
ストーブの火が赤々と燃え、室内は暑い。
 物音がしたかと思うと、短い髪をした男がヌッと入ってきた。
風呂を入っていたらしく上半身が裸のままだ。
背中には見事な入墨が彫られていた。
目つきが鋭い。
 (こ、この男か、かなり若いな)
小村に言われていたことを思い出す。
ペコリと頭を下げた。男は一瞥すると姉妹の前に座りこんだ。
姉のほうが顔を上げた。
 「おっちゃん。これ、読んで」
男が不器用な声で読み始めた。
妹は男の背後に回る。手には掃除をするときのコロコロが握られていた。
細かなゴミを両面テープの接着剤でとる、あのコロコロだ。

 洋二は何をするのだろうと眺めた。
子供は男の入墨をコロコロで拭き取るように上下させた。
身体が小刻みにゆらぐ。
入墨が消えるわけないからなおも力は入れられる。
 (ゲ、ようやるわ。大丈夫やろか)
息をつめてそれを見ていると男と目が合った。
洋二はギクリとしたが首を回して男はニヤリと微笑んだだけだった。
なおも、後ろからされるままになっていた。

 大竹組と梅山組。この二つの組は対立はしていないのだろうか。
素人にはわかるはずもない。
もし対立している組同士なら、洋二の立場はどうなるのだろう。
小村に相談しても
 「そんなこと、知るかいな」
笑いながら言うだけだ。
はっきりしたことがわかるまでは要注意である。
順調にこなしていた出張が少し苦痛になっていた。

 東原が出してくれたコーヒーに口をつけ、親分さんの準備ができるのを待っていた。
チャイムが鳴った。誰かが玄関をあがってくる気配がする。
 「あら、あんまはん。ここにも来てたの。
商売繁盛でけっこうなことやね」
来客者は大竹さんの奥さんだった。
顔が引きつっていたが無理に微笑を作る。
かなり不自然な顔をしていたはずだ。
 「ハアー、おかげさまで。ボチボチやらしてもらってますわ」
苦笑いしながら、胸のつかえは一気に消えていくのであった。


     4

 洋二は新しい通帳を作った。
一週間か二週間おきに貯まった出張費を貯金をしに行くのが楽しみなのだ。
もちろん、これは嫁には内緒である。
世間はゴールデンウィークで騒然としているが、
ゴールデンウィークなど関係ない仕事についたのはどことなく
“やくざな仕事”についたような感じがする。
その証拠に“ヤクザ”との接触が増えているではないか。
それでも、会社員時代とまったく違う環境にどぎまぎしながらも
稼げるありがたさを実感していた。

 銀行でいつものようにイスに座って待っていると肩をたたく者がいた。
振り返ると、そこには東原が手をあげて立っていた。
 「やアー、ニコニコして、いいことでもあったん?」
 「あ、こんにちは。東原はん。どうです、コーヒーでも飲みに行きませんか。
いつも儲けさせてもらってばかりやし、おごりますよ」
東原は困ったような顔をした。
 「いや、これが終わったらすぐに帰らんと‥」
小脇に抱えた小さなバックを大事そうに持っている。
 「いいじゃないですか。30分ぐらいならいいでしょう」
なかば強引な誘いだった。
何かを気にしている東原は、咳き込みながらしぶしぶついてきた。
彼はタバコも吸わないし、酒も飲まない。
結婚もしていないと言った。
問わず語りに、かろうじてそれだけを聞き出すことができた。
 「今度は酒でも一緒に行きたいけど、飲まないんじゃな‥ダメですね」
手を横に振りながら急いで帰る後ろ姿は
まるで踊っていた。

 次の日、東原の顔がいつもと違っていた。
はっきりと見えない洋二の目にもそれはわかった。
青いというよりドス黒く全体的にむくんでいる。
唇ははれあがっていた。
 「ど、どないしたんです」
目を見張る洋二に何も言わずに
あまり開かない口元に笑みをうかべて向こうへ行ってしまった。
何があったのだろう。かなりひどい。
様子かおかしいのにそこで気づくべきだった。

 「ほんまに東原と一緒にお茶を飲みに行ったんか。おごったってほんまか」
いつもの親分ではなかった。凄みがあった。
洋二は驚いておもわず手の動きをとめた。
 「ええ、行きましたよ。い、いつも、儲けさせてもらっていますので。
…その、‥感謝のつもりで。東原さんに
‥その、銀行で会ったもんだから誘ったんです。
た、確かに私がおごりました」
こうなれば、仕方がない。
正直に言うしかない。
口はカラカラで空気がもれ、あえいでいた。
 「あいつには金は持たせてないんや。時間も遅かったからなア〜。
今までこんなことはなかったんや」
そう言うと沈黙した。
思い出したように洋二はとめていた手を再び動かした。

 次には何を言うのだろうか。
長い時間が過ぎたように思われる。
いつもの一時間が2時間にも3時間にも感じられる。
洋二が言うまま、右や左に身体を向けるだけで、声を発しなかった。

 この世界ってこんなにも理不尽なあつかいを受ける世界なのか。
お茶を飲みに行くぐらいで何が悪い。東原は何でやめないんのだろう。
 『おい、東原ちょっと来い。ここ間違っているやないか。
まったく小学校しか行っとらん奴はこれやからな。』
 『東原、何回言ったらわかるんや。』
 『お前はアホか!、こんなんも読めへんのか。頼むでー、まったく』
 幾度となく聞かされた怒号。人前であそこまで言わんでもええのにと
いつも聞いていたものだ。思い出すと、洋二はしだいに腹が立ってきた。
 「わ、わかりましたよ。もう誘うようなことはしませんわ」
腹ばいになっていた背中がピクリと動くのがわかった。
 (しまった)
自分でも信じられないほど大きな声だった。
 『やかましい、お前誰にもの言うとんねん。帰れ』
そう言われるか、ヘタすればどつかれるか。
と身構えた。冷や汗が流れる。
 「いや、もし時間があったら誘ってやってくれ。
そんときは悪いがあんまさん、おごってやってや。
お金は後で請求してくれたら、ええからな」
 一瞬、耳を疑った。寝そべっている彼の声とは違う人の声に聞こえたのだ。
いつも“あんまはん”と言うのに“あんまさん”になったのも、聞き逃さなかった。
だが、真意がわかるはずもない。
 「ヘ、さ、誘ってもいいんですか」
 「ああ、そうしてくれ」
 (どうなっているんや。さっきまで怒ってたんやないんか??!。)
座らせて、仕上げに入ると親分の後姿が、少し小さく見えた。
 「東原ー、あんまはんが帰るで。金を払っといてくれや」
そう叫ぶとまた布団にもぐりこんだ。
 (あれ、あんまはんにもどってる‥)
背中の汗はまだ湿っていた。

 「すみません。僕か誘ったばかりに痛い目をさせましたな。
勘弁してくださいな」
頭を下げると、いやいやという素振りでお金をわたす。
そして、激しく咳き込んだ。

 梅山組からは一週間ほどは電話はかかってこなかった。
久しぶりに事務所へよばれて行ってみると親分は以前と変わらぬ接っしかただった。
洋二も何もなかったかのように、ふるまった。

 東原とはそれからは、街で会ったらお茶や食事に行くようになった。
 「今日は私がおごりますよ。小遣いをもっていますので大丈夫です」
うれしそうにそう言う顔は自慢げにも見える。
親分から小遣いをもらえるようになったのだろうか。給料としてもらえればいいんだが、それはないだろう。
ぼっかけが二人の前に運ばれてきた。
うまそうに食べる東原の顔を見ているだけで
洋二もうれしくなってきた。


      5

 「東原か、あいつ、酒飲めへんてか。そんなことあるかいな。
飲ましたら底なしやで。血の気が多いちゅうか、
酒飲んだら、ケンカっ早いのが難やな。」
大竹の奥さんはあきれたように、笑いをこらえるように言った。
 「え、あの東原はんですよ。まったく、飲めない言うてましたよ。
それにケンカも強そうには見えませんけどな」
 「さいな、弱そうにみえて強いんやで。
この世界に入ってくるもんにはそんな変わったやつもいるがな。
変なこと言うたら怖いで」
信じられないことだった。あの東原が‥、
凶暴になるなどどのように想像をたくましくしても、それは信じられない。
 (まさか‥)
いくらそう言われても疑心暗鬼が生ずることはなかった。
 「あの親分さんに拾ってもらうまではそりゃ荒れていたんや。
うちの旦那もかなわん奴やとよう言うとったがな」
 「だけど、今の東原さん、まったくそんな素振りはないですね。
まるで別人ですね」
 「信じたくなかったらええけどな」
さすがに、そこまで言われると返す言葉がない。

 洋二は東原のことがどうしても信じられなかった。
おとなしそうで口数は少ないし見るからに優しそうである。
人は見かけによらないというが、はたしてそうなのか。
確かめてみたくもあり、そっとこのままつきあいたくもあった。

 「え、‥‥‥‥コホコホコホ」
大きな咳をした東原があわてて水を口に運んだ。
お茶を飲みながら洋二は聞いていた。
聞く気などなかったのにそれは口から勝手に出ていたのだ。
後悔してももう遅い。
 「大竹の奥さんがね、お酒が飲める口だって言ってましたよ」
 「そうか、大竹のネエさんから聞いたんか‥‥‥」
階下を行き交う車に東原は視線を向けた。
しばらく考え事をして、そして、ゆっくりと洋二のほうに顔を向けた。
 「昔はこれでもいきがってたんや。酒を飲んではあばれてた。
ケンカも強かったしな。女も泣かしたな」
話す顔はいつもの東原の顔である。
だが、口から出てくる言葉はまったく違っていた。
 「今となって思えば“若気の至り”ちゅうやつやな。
社長さんに拾ってもらわんかったら今頃どうなってたか」
 「ほやけど、あそこまでボロクソに言われて、腹たたへん?」
 「うちの社長のしゃべりかたはあれで普通なんよ。
川村さんなんかには、歪な世界に見えるんやろな」
返事をするかわりに、沈黙で答えた。
 「よう言うとったやろ。小学校もろくに出とらんって。
あれは、ほんまや。ほんまのこと言われて
腹が立つ奴がいるか?」
 小学校も出ていない。そんな人が今の日本にいるのか。
どこの国の話しをしているのだろう。
にわかには信じがたい。
 「小さい頃に両親が事故死してな。親戚をたらい回しになってたんや。
そこの子供とうまくいかんかったし、勉強は嫌いやったしな。
だから学校へはあまり行かんかった。
問題をおこせばまたちがう親戚のとこや。
義務教育だから卒業証書はくれるけど、頭はこの通りや」
指をかぎ型に曲げ、頭をポカポカとたたいた。
 「中学んときは卒業式にも出えへんかった。
出たくても出られへん事情もあったからな。わかるやろ、
‥‥わからんか」
ツバを飲み込みながら、うなずいてみせた。
 「ふ〜ん、そうなんや。だけど信じられへんな」
洋二は大きくなおもうなずきながらタバコに火をつけた。
 「せっかく、ここまで真面目にやってきたんやからな。
今は酒もタバコもしたいとは思わん。
昔の俺にはもどりたくないんよ」

 昔の俺か。真面目にやりたいのならヤクザな家業をやめるべきだと思う。
この家業にいる間は真面目になることなんかできるもんか。
あんた、それがわからんのか。
仕事を見つけて、夜間中学に行って、
それから、ええと、それから。
あかん。無責任すぎる、
アドバイスなどできるわけがなかった。

 「どうしたん、あきれて何も言われへんか。
そうやろな」
黙っている洋二に東原は笑いかけてきた。
 「いや、何って言うか、信じられんことばかりで‥‥」
 「そりゃそうやわな、カタギの衆にわかる世界じゃないわな」
二人の沈黙がしばらく続いた。

 「あんまさんになるんは難しいんか?」
 「え、あんまですか。難しいというか勉強さえすればなれるというか。
ただ、高校の卒業視覚が必要なんですわ」
唐突に話題が変わったので洋二は少しビックリした。
 「え、高校を出てないとあかんのか。そうなんや。う〜ん」
 「また、急に難で」
 「川村はん、社長とも対等に話しをしてるもんな。
この間なんか目の出欠について詳しゅう教えてもらったと言うてたわ。
あのあんまはん、よう勉強しとると感心しとったで」
 糖尿病性網膜症のことか。
糖尿病を甘くみている親分をおどかす為に
同級生でやはり同じ症状だった人の話しをしただけだった。
ヘタをすれば視力を失うこと、壊死により足を切断すること、
腎症を発症したら透析を受けなければなりませんよと。
しかし、相手は気にもとめていないようだったのに。


    6

 「今日は東原さんはどうしたんですか。
直接、社長さんが電話してくるなんて珍しいですね」
 「あいつ、熱があるいうて寝とるんや。真っ赤な顔してな、
氷で冷やしてるわ」
風邪でもひいているのだろうか。親分さんから電話がかかってきたときは
さすがにビックリした。
梅雨に入って少し寒かった。身体を冷やしたのかもしれない。
 「病院は行ったんですか」
 「行くわけないやろ。健康保険にも入ってないんやで。
病院代はわしが全部もたんとあかんのやから。
まったく、世話がかかるやっちゃ」
 (え、健康保険に入ってない。東原さんのことやから
親分に遠慮してるのかもしれんな。大丈夫かな)
しばらくは、梅山組からは親分が電話をしてきた。
季節は初夏から夏本番へと移り変わっていた。

 梅山組の事務所を北へ入り、さらに東に二筋入る。
東原のアパートはこの路地にあると聞いてきた。
狭い路地には、換気扇のよどんだ空気と室外機からの風邪が充満し
生臭い魚の匂いにおもわず顔をしかめた。
子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。
 (え〜と、どこかな)
 洋二は表札が見えるわけでもなかった。
人気もないので、はたと困ってしまった。
見わたすと左右は似たような文化住宅が並んでいる。
思い思いに洗濯物が干され、
植木は雑然として手入れなどはされていないようである。
ポリバケツの蓋がはずれ、生ゴミがあふれていた。

 通りがかったおばあさんをつかまえて聞いてみる。
洋二の姿を上から下までなめ回すように見てから、
おもむろに口を開いた。
 「え、ああ、あのチンピラかいな。ほれ、そこの3軒目やがな」
いかにも、いぶかしげに洋二を見やり
かかわりたくないとそそくさと去っていった。
1、2軒、3軒目と数えながら近寄ってみた。
右となりの洗濯台がこちらへかなり占拠してせりだしている。
雑草のツルが窓のサンにからんでいた。
ガラス戸の玄関は入り口が右なのか左なのかがわからない。
アスファルトがめくれ上がり、
排水溝が欠けて、足場が悪かった。

 ガラス戸をたたいてみた。
ドアは揺れながら今にもはずれそうだ。
人のいる気配はない。
なおも、洋二はドアをたたいた。
しかし、誰も出てこなかった。
 (しんどくて寝間から出られないんかな)
ガラス戸に手をかけてみた。鍵がかかっていた。
しかたなく洋二は引き返すことにした。
ふと横の電信柱に目が留まった。
白い紙が貼られていた。
 『○中』
 (うん、何て書いてあるんや)
なおも目を近づけてみた。
それは太い筆文字で『喪中』が黒ワクで囲まれている白い紙だった。
下の矢印は東原の部屋を指していた。
洋二は頭が真っ白になった。

 (東原はん、死んだのか。そういえば、
いつも乾いた咳ばかりしていたな。
病院に行く金もないので寝てばかりいると言っていたな。
高熱にうなされて、見取る人はいたんやろか)
次々と頭に浮かぶのは、東原のうなされている顔だけだった。

 気がつくと、梅山組の事務所前に来ていた。
親分はもう葬式場へ行ってるだろうか。
昼からは予約も入っていないから休んで参加させてもらおう。
しばらく事務所の前でたたずんでいた。
そして、チャイムを押した。

 「どないしたんや、今日はあんまはよんでないで」
親分の低い声が突然マイクから飛び出した。
親分は式場へ行っていて、留守番の者が出るものだと思っていたから
少し驚いた。
 「いえ、あの東原はんの、そ.葬式場はど.どこですか」
一瞬、黙っていた親分がふき出した。
 「ハハハ、東原が死んだって、誰が言うた」
 「え、東原はんの部屋の横の電信柱に喪中の紙が…」
そこで洋二は肩をたたかれた。
見ると、東原がスーパーの袋をさげて微笑んでいた。
 「あ、東原はん、い.生きとったんですか。ぼ僕はまた死んだばっかりと思って」
玄関のドアが開けられた。

 「ハハハハハ、東原が死んだんなんて。
さっきから、あんまはんがうろうろしとるから何でやろっと思ったら、ハハハ」
親分は目に涙を浮かべて笑った。
洋二は勘違いにてれながら頭をかいた。
 東原の2軒隣りのおばあさんが亡くなって、
その喪中の貼り紙が貼ってあったものを洋二は勘違いしたのだ。
 「ハハハ、お前らよう似た者同士やな。
まったく、世話がやけるで。だけど、
あんまし仲良くするとアホがうつるからな、ハハハハハ、気イーつけや」
東原はコーヒーをいれながら
洋二に目配せした。


               (了)



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