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| 誤謬のツボ |
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 洋二の店だけでなく、近頃では同業者の店でも仕事がめっきりと暇になってきているようです。乱立する接骨院と無資格者の店の横行が原因であろうことは明白なことでした。接骨院に流れていく高齢者は、介護保険や健康保険が自然と増加しているので年金が目減りしていきます。だから、いたしかたのないところだとは思われます。
洋二の店でも、あんまマッサージはり灸が、健康保険でも使えるようにシフトしてからはお客様が少しずつ増えてきていました。それでも、全盛のころに比べれば、3分の2程度の回復です。
 土.日曜日はいつもではありませんが、ときには忙しくなるときもあります。サラリーマン.OLや教師らがやってきてくれるのです。土曜.日曜の両日とも忙しいのはまれで、どちらか一日だけが忙しくなるのでした。

 その日は1時から予約のお客様が入っていました。さほど忙しくない日曜日でした。常連の42歳の薬剤師の独身女性です。彼女は20分も前にやってきたのです。
 (食事を早めにすませていてよかった。)
予約の時間に遅れる人、早めに来る人とさまざまです。いつでも対処できるように食事も早々にすませていました。健康のためには早食いはよくないのはわかっているのですが、仕事を少しでも逃したくない職人の性(さが)ともいえる悪癖なのかもしれません。


 岩棚しずかはその日、体調がかなり悪かったのです。ダイエットのために食事を制限していたし、運動もあまりしていなかったので、ここまで歩いてくるのさえ辛かったのです。この数年、体重を計っていませんが最後に計ったときは、99.99kgあったことだけは覚えています。それからは体重計には絶対に乗りません。
。この治療印にたどり着くまでには数年かかりました。しずかの体は普通の人より大きいので、やはり力を入れてもんで欲しかったのです。
 「すみません、もっと力を入れてください」
汗まみれで形相を変えてもんでいるマッサージ師に、そんなことは何度も言うことはできませんでした。どこに行っても、しずかの要求を満たしてはくれなかったのです。欲求不満だけが残ってしまうのでした。ようやく、この店を、しずか好みとして探し当てたのです。白衣を着たこの治療印の先生はしずかより十は上でしょうか。年上でどんな話題にも反応してくれるのも気に入っていました。
 実はこの店を探し当てるまでは隣町のマッサージ店に行っていました。しずかの務める薬剤店の最寄り駅のそばでした。その店の先生は自分で、キムタクに似ていると傲語していました。ところが、木村拓也と言うより、川谷拓三に似ていました。だから、しずかの中では、カワタク先生だったのでした。
腕前はうまいほうでした。しかし、彼はしゃべりがすぎました。せっかくもんでもらっても、そのときは気持ちがいいのですがなぜか帰りは疲れているのでした。
 それに比べると、ここの先生は腕はまあまあですが口数が少ないのでくつろげるのです。何より気に入っていたのは、時々は(アー、そうそう、そこよー)というポイントを押してくれるのです。残念なのは毎回ポイントにあたりません。時々当たるポイントを楽しみに行くのでした。
 今でも隣町のカワタク先生のとこへも行ってはいるのですが、近いこともあり整風堂マッサージを利用するほうが多くなっていました。

 今日にかぎって自転車はパンクしていたし、今にもふり出しそうな梅雨空は湿度がかなり高かったので不快でした。頭がフラフラするので少し貧血ぎみなのかもしれないと自覚していました。最悪の日でした。
 (ちょっと、早めに家をでたからもう着いてしまったわ。先生には悪いけど待たせてもらおうっと。外の暑さはもうたまらないわ)
 汗かきのしずかはクーラーのきいた待合室で、うちわであおぎながらペットボトルのお茶を一気に飲みほしました。。あおぐたびにソファーがきしみます。呼吸もようやく整ってきました。
中肉中背だが原だけせり出している、治療印の先生はにこやかに迎えてくれました

 慢性の便秘症のしずかは1週間も便がとどこおっていました。水分を取るように心がけて、薬も服用していました。なぜか今週はピタッと止まってしまっていたのです。横向きでもんでもらうと、一番下の肋骨から骨盤にかけて痛みがありました。
 (あ、痛い)
と思ったときにはもう指は離れているのです。痛いという感じと、効いているーの感覚が何ともいえず『イタギモ』なのです。また、ヘソから鼠径部にかけてもまれるとこそばくて気持ちがいいのです。これは『コチョギモ』という感覚でした。


 洋二の店にやって来るお客様の中でもこの人は口数が少ない方です。彼女がやってくると、ただモクモクと洋二はマッサージをするのでした。かさが高くて、脂肪が多いのでかなり力を要します。しゃべる余裕などありません。
 (それにしても、太い。この腕なんか俺のふくらはぎぐらいはありそうや。足は、まるでゾウの足みたいや)
いつものように、しゃべることもなく1時間が過ぎようとしていました。洋二が仕上げに入ったところで、
 「次のお客様は何時に入っているのですか?」
彼女が尋ねてきました。実は次の予約は4時半だったのです。でも、
 「ハイ、2時半です」
とっさに洋二はそう答えていました。なぜ、そう答えたのかは自分でもわかりません。
 「あの、それなら、もう少し延長してもらえないですか」
 「あ、そうですか。それなら15分延長しましょうか」
そう言って、洋二はまたもみ始めました。肉付きのいい殿部や腰を力を入れてもみます。全身汗まみれになります。頭からは湯気が立ち上り、額の汗を首に下げたタオルでふきながら力をこめていきます。肩で息をしていました。
すると、彼女が声を出しました。
 「あ、痛いですか。す、すみません。」
そう聞いても彼女からは変時がありません。それどころか、声音が変わってきたではありませんか。今までに彼女はこんな声を出したことはなかったのです。
 「アアー」 「ウウー」 「ん、ヒイー」 「イイイー」
 確かに洋二は力を入れていました。肉付きのよすぎる体は力を入れなければならないからです。ドアを閉めているとはいえ、外に声がもれないかと心配でたまりません。悲鳴とも、あえぎ声ともよがり声とも言える声なのです。洋二は複雑な気持ちでその声を聞いていました。
 (な、なんじゃ、こりゃ)
明らかに様子が違っています。押すたびに出てくる声は、だんだん不気味な響きとなって共鳴するのでした。


 今日の整風堂の先生はよくヒットします。横っ腹にビシビシと指先が決まります。
解剖学的に言えば、横行結腸のあたりでしょうか。それぐらいはしずかも学生時代に学んだ記憶がありました。思わず、声が出てしまいました。
 「あ、痛いですか。す、すみません。」
聞かれたときには、声が出ませんでした。
 「アアー」 「ウウー」 「ん、ヒイー」 「イイイー」
代わりに、自分でもわけのわからない声が出ていたのでした。確実に便がつまっている部分に、指が当たっているのです。すぐに、もよおすというものではありませんがもう少しじっくりとゆっくりと、そこを押して欲しかったのです。そう言いたくて声をだそうとしましたが、声にならない声がもれていました。
 (恥ずかしい)
とは思いましたが、もうどうしようもなく恍惚の境地だったのです。このままずっと続けて欲しいと思っていると終了の気配がします。
 「次のお客様は何時に入っているのですか?」
しずかは思わず、上ずった声で尋ねていました。もう少し、腰のあたりをもんでほしかったのです。
再びまさぐってくる指は確実にポイントにヒットしました。今日の整風堂は久しぶりのヒットマンでした。身も心も大便も全てまかせたい、たくましい指なのです。またたくまに、15分の延長が終わってしまいました。


 ようやく、延長の15分が終わりました。すると、彼女は時計を見て
 「もう30分のばしてください」
洋二の変時も聞かずにそう言ってうつ伏せになったのです。強制的な支持するような声でした。洋二は全身汗がふきだしていました。
 (ムムム、ハ ーハー、まいったな。確かに時間はある。帰れって言う理由もないしな。ハー ハー)
しかたなく、洋二はもみ続けます。もうやけクソです。と同時にとめどなく、また彼女の声は出るのでした。酸欠と熱気で洋二はめまいを覚えました。
この人はよがり声を出しているが、自分はあえぎ声を殺している。いっそ、一緒に声を出したら、どんなに気持ちがいいだろうなどと、できもしないことを考えてしまいます。


 「もう30分のばしてください」
いらだちをこめて、しずかはいつのまにか言っていました。止まっていた指が再び動き出します。
 (アー、最高。もう、もう少しで出るわ。そう、そこよ)
最後には自分から仰臥位になって、お腹をもんでもらいました。グルグルと音がするのがわかります。ようやく慢性の便秘が出そうなところまできているのです。お腹のグルグル音を消すためにも、しずかの声は大きくなっていました。


 (ハー ハー……、待てよ、mlでの知り合いのgold fingerって名乗っているやつが、俺は客にモテるなんて自慢してたけど、もしかすると、彼は発情するツボを心得ているんじゃないんか。ハー ハー、それを押して、俺はモテるなんて言ってるんかもしれん。実際に顔を見たことはないんだしな。もてる顔かどうかわかったもんじゃない。ハー ハー、
goldfingerってのはそこからきているんかもしれんな…。誰にも教えようとしない、せこいやつゃからな、あの男は…。ハー ハー、
お、俺も、も、もしかすると、うっかり発情ポイントを押してしもうたんかもしれん。このままだと、gold fingerよりも俺はgod fingerになれるんかも…しれん。ヒヒヒヒヒ。ハー ハー)
 そんなことを考えていると鳥肌が立ってきました。疑心暗鬼を生ずるというより、長年探し当てていた、何か見つけてはならない秘宝みたいなものをを見つけたような複雑な感情がいり混じっていました。なんせ、仕事に関しては素人に毛がはえた程度の洋二の実力です。まさか、そんなツボがあることなど知るよしもなかったのです。

これもmlで知り合った、大先輩のパラリンさんという人が言っていたことです。確か、“悦楽兪”とか言ってたはずです。教科書には載っていない裏の世界の話しなのかもしれません。それが本当に存在するとは…。思いもしなかったので、顔はますます紅潮してきます。
ない知恵をしぼり、常に頭では経穴経絡のことを考えるようにしていたのですから、“愚者も千慮に一得ありや”と納得するのでした。
 (この悦楽ツボさえ押せば、女客はいくらでもやってくる。それどころか、うまくいけば………ウヒヒヒ酒池肉林やがな。)
洋二の顔はにやけていました。そして彼女の一段と高い「アー」の声が耳に飛び込んできたのです。その声で、現実に引き戻されました
 うつ伏せになっている彼女、100kgははるかに超すであろう巨漢だったのです。上背も洋二より高いように思われます。その女が奇妙な声を発しているのでした。
 (この体におさえつけられたら男とは言え、さすがに抵抗のしようがないよな)
洋二は操に危機をヒシヒシと感じました。そして悦楽兪と反対の作用をするであろう経穴を必死でまさぐります。大海でごぼうを洗っているようなむなしい作業でしたが、今の洋二にはそんなことは言っておれません。
 まさかとは思いながらも、巨漢に押しつぶされる映像が目に浮かんできます。もうこうなったら、悦楽ツボどころではありません。にやけた顔はみるみるうちに、青ざめるのでした。
 「すみません、お腹ももんでくれませんか」
洋二はもう声を出すことができません。両手のひらと四指を合わせて船の炉をこぐように腹をもみました。ほとばしる汗を拭くひまなどありません。声はむろん出ませんが、呼吸が荒くなりあえぐばかりです。
 ようやく仕事が終わりました。しめて、1時間45分7千円です。財布から1万円札を出す彼女に、おつりを渡す洋二の手は震えていました。もちろん、さとられないように最善の注意ははらっていたつもりです。肉付きのよい彼女の体からは化粧の代わりに、脂肪分の匂いが鼻をくすぐるのでした。洋二はめまいと嘔気を感じていました。
 「ちょっと、トイレを貸してください」
彼女はそう言うや奥へ消えていきます。洋二はようやく息をつきました。


 しずかは1万円札を出したのは悪かったとおもっていました。先生はおつりを出すのに手間取っていたのです。後でもらうからと、早くトイレに行きたかったのです。そうもいかないので、何食わぬ顔でおつりを受け取りました。トイレに入るや、これほど出るのかと思われるほどお出ましになったのです。水洗トイレがつまったらどうしようと思いながら、何度も何度も流してしまいました。
大きくため息がでました。救われたという快感だったのです。


 洋二は気がきではありません。早く帰ればいいのにと願っています。そう思いながら、メールチェックをしていました。彼女はなかなか、トイレから出てきません。何をしているのやら、それは15分程度だったでしょうか。その時間の長いこと、キーボードを触る手も自分の手とは思えなかったほどです。
 やがて、彼女がトイレから出てきました。洋二の横に立ちます。洋二の心臓がバクバクと高まっていくのがわかります。
 「ウワアー、大きな文字ね。あら、音も出ているのね」
しゃべる彼女の吐く息がうなじにあたります。近い、すぐそばに立っているのです。同時にまたもや、脂肪分の臭気もただよってきました。洋二はもう、うわの空です。返事もそこそこに、彼女のほうを向く勇気はありません。顔を向けるとたくましい腕に抱きすくめられるだけだろうと確信していました。
 「じゃ、失礼します。また、よろしくお願いしますね」
 「ハ、はい。わかりました。」


 お腹も心もさわやかになったしずかは、パソコンに向かっている先生に近づきました。今までに見たことはありましたが視覚障害者用のソフトが組み込まれたディスプレーはあざやかな色です。音も出ています。その音は画面の文字を読んでいるようでした。
 「ウワアー、大きな文字ね。あら、音も出ているのね」
感嘆の声をしずかは出したのですが、先生は画面から目を離しません。正直に便秘が解消したことを告げようかと思っていましたが、あまりに熱心にパソコンに向かっているので、もうそれ以上は声をかけるのをやめました。また今度の機会にでもお礼を言おうと店を出ました。


 帰るときも、いつもならあまりしゃべらない彼女が今日はやけに多弁でした。出て行った後、玄関のキーをロックしようかと洋二は本気で考えました。その後、30分はもどっては来ぬかと気をもんでいたのです。
 (それにしても、怖かった。色男に生んだ神様を恨むしかあるまい。)
安心すると同時に“悦楽兪”について調べてみようと久しぶりに貝原益軒の古典などを引っ張り出すのでした。
 部屋の中はクーラーが効いています。しかし、思いがけず汗まみれになったおかげで、悦楽兪のヒントも得たような気が洋二はしたのです。
ようやく、汗がひいたのに頭の中は涼しかった。頭がクーラーとした日曜日だったのです。
                (2009年7月3日 了)

 【あとがき】
 女は灰になるまで‥と申します。これに対極する言葉は、男は死ぬまでスケベエ心を持っているとなるのでしょうか。
40にしてアハキの免許を取った洋二は、卒業後も勉強には余念がありませんでした。しかし、みんなより遅れてアハキの世界に入ったのですからあせりもあったのです。
 悦楽兪などあろうはずもなく、誤謬を正すことまでは思い至らないどこまでも未熟な洋二なのでした。どんな小さな出来事でも、ついつい針小棒大に解釈してしまう。そんな男のスケベ心を書いたものです。          (整風)



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