その日、洋二と浅田は梅田へ行くことになっていた。
市バスに乗るため学校の近くのバス停へ向かった。
二人が歩いていると畑中ともう一人の先生が
後ろから歩いてくるのに気づいた。
なにやらブツブツ言っている。
二人とも全盲で白杖をつき、
ゆっくりとした歩調である。
「5 6に歩だな。」
水田という教師が言った。
「う〜ん。そうくるか…」
畑中は考えこんだ。
一瞬あいさつすべきか、躊躇する。
水田という教師には、まだ科目を受け持ってもらっていない。
顔は知っていたが何の科目を担当しているかさえ知らない。
「こんにちは、川村と浅田です。どこか、お出かけですか」
声をかけないわけにもいかない。
畑中がハッとして笑う。
「川村くんか。君らこそどこへ行くんだ」
「梅田へちょっと用があって」
洋二は大きな声で答えた。
「わしらは、○○駅で、ちょっとな」
「ところで先生、何をやってるんです
もしかすると将棋?」
歩や桂馬の言葉が聞こえていた。
「あ。そやそや。将棋や」
「そうですか。じゃあー話しかけるのやめます」
バスに乗り込んでから洋二は浅田に言った。
「学校からああして二人で空で将棋をやって来たんやろか。
だけどすごいな。あんなこと、できるんやな」
洋二はいつものように、頻りに感心する。
「あんがい慣れとちゃうか。慣れたらどうにかなるんやで」
いつも畑中のことを話題にする洋二に、
浅田は面白くなさそうに答える。
洋二も将棋は好きだった。詰め将棋もよくやった。
頭の中で駒を動かして、それが
つんだときの快感は忘れられない。
しかし、一勝負をすべて
頭の中でやることは考えられない。
プロの棋士が空で将棋をすることは知っていたが
全盲の世界でもやっているとは
それは衝撃的であり感動的でもあった。
「盲(めくら)将棋って知ってるか。
昔から盲人がやっていると言われてな
双方または一方が盤や駒を使わず、口頭で指し手を運ぶ将棋のことと
辞書には載ってるんや。
プロの棋士はそれができるみたいだけどな。
囲碁をこれでやる人もいるんやで。
将棋は81やけど囲碁は361の目やから
もっと大変や。わしも、ようせんけどな」
休み時間に、畑中が言う。
「盲(めくら)なんて、そんな露骨に言わんでも」
最近は差別用語にたいする指摘が厳しいことが、頭に浮かぶ。
だが、畑中はまったく頓着しない。
「一度お手合わせ願えますか」
「そうやな。そのうちにやろか」
しかし、畑中と将棋をやる機会は、おとずれなかった。
水田は将棋2段であった。
ただし、通信教育だが…。
洋二は土曜日の放課後、手合わせをすることになった。
外で食事をすませ、誰もいない教室で待つ。
廊下を歩いてくる水田の足音が聞こえてきた。
「川村くん、いるかな」
手に将棋版と駒を持って現れた。
将棋版は薄い白いシートが貼られ
縦横の線上は、盛り上がっていて、
駒がずれないようになっている。
駒は後ろ側面に点字が打ってある。
駒の判別ができるようになっている。
「7、7、歩」
洋二の先手で始まった。縦と横の番号を読み、
駒の名前を言いながら、指していく。
水田は長考である。
元来、気の短い洋二はいらいらしたが、将棋を指す愉しみは
格別である。2勝2敗、。
気がつくと5時になっていた。
「さっきの手やけど…」
そう言いながら、水田は3局目の終盤の寄せを再現していく。
洋二は驚いたが、水田の指す手板を見ていると思い出してくる。
「ここは、金でとらんと銀だったかな」
「いや、8,3に馬がいますから、一緒ですわ」
「そうか。あかんな。え〜と持ち駒は?」
そこへ見回りの先生が入ってきた。
「そろそろ閉めようと思います。土曜日ですので」
「すまんすまん。すぐ帰るわ」
結局、洋二が学校を出たのは6時前であった。
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