ラブストーリーは
  突然に



     ラブストーリーは、突然に


    1

 庄兵は小さいころから足が小さいほうでした。身体は165cmと平均より少し小さいぐらいなのですが、足のサイズは24cmと平均より更に小さいのでした。足が小さいことはコンプレックスとなった時期もありましたが、走るのは早いほうだったし、跳ぶ.はねる力も、みなより能力は高いほうだったので、さほど気にはしていませんでした。
 小さい足は、いつも靴やソックスを選ぶのに苦労していました。大き目のものを無理に履いていたので、歩きにくいことを、いつも実感しながらあるいていたのです。いつしか、男の一般的な流行には背を向けていました。
 だから、近頃ではまっすぐ女性コーナーへ行くことにしていたのです。女性ものは可愛いものやハデなものが多いのですが、 それでも、男性が使用してもさしつかえないものもありました。時にはわざと女性っぽいものも好むようにもなっていました。
 足元がカラフルになり、気分が高揚してくると、自然に他のものも気になってくるものです。無駄に年を重ねてもファッショナブルに着こなしてこそ、中年男だと密かに自負するようになっていたのです。帽子やバッグ.ベルトなども若向きなものを選ぶようになっていました。
 そうなると、部屋のインテリアもそれまでの様式とは相反してきます。誰かに言われて迎合したものではありません。
カーテンは薄い桃色にしました。ベッドカバーは淡い緑色で花柄模様のアクセサリーが入っているものなどを選びました。季節によって、アロマオイルを変えました。それらはリラックスと睡眠を保障してくれるものとなったのです。
 まったく視力がない庄兵ですが、見えないからこそ周りの人に、淡白的な印象を与えたくないのです。 ある意味、視覚障害者は見世物です。見せたくなくても世間は注目するのです。頼むから見ないでくれと嘆願しても、それはかなわないことでした。
電車やバスに白杖をついて一人で乗ろうものなら、一部始終を見られるのです。小さな子供は興味本位で親に尋ねます。
 「あの人、目が見えないの。あの杖だけでよく歩けるね。怖くないのかな」
悪気のないそんな言葉や視線を意識するたびに、庄兵の考えは次々と変わってくるのでした。

 最近、困ったことが庄兵にはありました。ソックスがすぐに破れてしまうのです。これは、40代に入ってから気がついたことです。さらに40代後半にもなると冷え性になってきたのです。冷え性は男性にはないと思っていたのですが、そうではなかったのです。 
患者さんにそれとなく相談してみると、勧められたのは5本指のソックスです。
 (5本指のソックスなんてダサイ。そんなもん、オジンくさくて履けるか)
と思いながら一度だけ、試してみました。これがなんと暖かいではありませんか。履きだしたら、もう手放せなくなったのです。しかも、5本の指の色がすべてちがうものがあるのです。これは華やかさを演出するもので、庄兵をさらに満足させるのでした。
 その5本指の小指側だけがいつも破れてしまうのでした。しかも、決まって、左足の小指の外側だけが穴があくのです。内反小指が左足だけきつかったのかもしれません。

 「先生、靴下に穴が空いとるよ
下を向いているお客様が、もまれながらもそう言います。庄兵は穴あきソックスには特に気をつけるようにしていたのですが、どうしても指摘されてしまうのでした。
買い置きを欠かさずに、少しでも穴が空いていたりうすくなってきたらすぐに捨てるようにしていました。履くときにわかればいいのですが、穴が小さいとわかりません。しかも、うすくなるだけなので、小指の穴はわかりにくいものなのでした。
 ショッピングは男性はたいてい嫌うものですが、庄兵はそんなわけでウィンドウショッピングも大好きでした。


    2

 「庄ちゃん、今日の予定を詳しく聞かせてくれんね」
ガイドヘルパーのまゆさんには、今週の初めに電話をかけて説明をしていました。単なる確認だけのこととは思いながらも、説明をしました。いつものことです。
 「ソラリアプラザに行って買い物ばしようと思っていますよ。そんで2時から献血の車が来ておるから、そこも寄りたいね 」
 最寄の駅は通勤時間が過ぎていたので、乗降客は少なかった。11月にしてはかなり寒いその日、クリスマスプレゼントのチェックとバーゲンセールが、庄兵は気になっていたのです。仕事も手につかずに、庄兵はいても立ってもいられず出かけました。
  片道二人で240円。9時53分発の西鉄天神大牟田線各駅停車に乗り、大橋で乗り換えました。12分足らずで西鉄福岡[天神]に着きました。
  ソラリアプラザの5階はさすがに人の波でごった返しています。先ずは洋服を物色します。まだまだバーゲンも日があさく、いま一つの品揃えです。
 それでも、これだと思うシャツを2枚買うことにしました。1枚は、水色でかるくキラキラ模様、もう1枚も同じ形ではあるけれど、オレンジとレッドで、これわちょっと迷った末、オレンジ色の物を選びました。
 「それって、5割引よ」
主婦のまゆさんにそう言われるとやけにお徳に感じます。
 「だけん、どうして冬服ってあんなん地味な物が多いのかいね」
 まゆさんは答えに窮しています。まったく見えない者の発言なのだから、どう答えるべきかを考えているのかもしれません。説明はしてやるものの、はたしてどこまで理解できているのか、まゆさんには想像もつかないことでしょう。
 「そう言われればそうね」
ようやく、それだけを返してくれました。
 「なんとなくわからん訳やなかけれど、冬やけんこそ重たい上着ばパッと脱いだ時、パアーっとあかるい色の服のほうがぶち素敵やなかのかいなーと思うんだけれどな。それに、どこんショッピング外もそうだけんど、まあー女性のお店が9割以上??。男物となると数店舗で、なんだかちっとも面白くなかんばいねえー」
 (たしかに、購買力を考えると納得はしてわいるのだけれど??の
庄ちゃんなんだよな)
とも言いたかったが、子供じみた言い方だと思われそうで、言葉を飲み込んだ。所詮はナビちゃんにわかるはずもないのです。それでも、口からは次の言葉が勝手に出てきました。どうも岡山出身の無口なまゆさんに比べると、庄兵はおしゃべりが過ぎるといつも思うのでありました。それでも、ショッピングをしながらのおしゃべりは、やめられません。
 「だってこれからはうちのような独身貴族が増えつつあるちうことは、自分自身にお金ば投資すると思うのだけれど。それは違うやろかあー。えらいえらい男性が購買欲がわくようなサービスばやれば、じぇったいお金ば落とすはずなのだけれどねえー」
まゆさんはそれには答えませんでした。
 「靴下コーナーがありますよ。今日は靴下はいいんですか」
と代わりにそう言います。
 「あ、こんあいだえらよかっぱい、買ったから今日はよかんです」
 広場にとまっている献血車には人気はあまりありません。まゆさんにカードに記入してもらい、中へ入りました。入り口に近いベッドに寝かされ、看護師が袖をめくりました。話しかけられたのは明らかに中年過ぎのおばさんでした。庄兵は、小さくため息を何回もつきました。
 (あかん、今日は運が悪い。おばはんに当たるとは…。さっさと帰るとするか)
いつも、若い娘なら思い切って匂いをかぐように呼吸をするのですが、今日は息を殺して献血が終わるのを待つしかありませんでした。


     3

 外は冷たい雨が降っています。ラジオの予報では、やみつつあると言っていたなとふと思い出す。午前中は部屋のかたずけをしながら、昨日買っておいたカーテンを取り付けました。カーテンは見えないけれど、なんとなく気持ちの良いものです。のんびりと、
 (ああ来月のこの日はクリスマスなんだなあー)
と、何だか気がセってきます。
 味噌汁をあたため直してベーコンエッグを作りました。お客がいないときは、昼飯には何か手のこんだものをを作りたいのです。しかし、いつ客が来るのかはわかりません。
結局はすぐに済ませられるものになるのでした。
 「アチー」
味噌汁が、右太ももにもろにこぼれました。それは一瞬にしてパンツまでしみわたっったのです。
 「ヒイー、アッチッチチチ」
立ち上がると、味噌汁はポタポタと畳の上に滴り落ち、太ももを熱い汁がジワッと伝わっていきます。股間の右側がイヤに熱かった。ズボンとパンツをつまんで、大事なところからつまみ離しました。
そのとき、玄関のチャイムが鳴ったのです。
 (ゲ、まったく、こんなときに限って…)
顔をしかめながらも、玄関のほうへ大声をはりあげました。
 「す、すみません。あがってちょこっと待っててくれんね。今ちょこっととりこんでますんで。そこん本でも読んでおいてくれんね 」
ジャージとパンツを一気に剥ぎ取ります。着替えを取り出そうと、たんすの法へ近づきました。
 「あら、先生。よか格好ね。お尻がまる見えよ 」
ギョッとして息を飲みました。その声はめぐみだったのです。鳥肌が立ち、頭はカアッと熱くなりました。
庄兵の下半身はまだスッポンポンのままです。急いではこうとして、パンツを片方だけ入れたところでよろめいてしまいました。瞬間、仰向けに転がり、もんどりうってしまったのです。大の字になってしまいましたが幸いどこもぶつけはしませんでした。
 (ゲ、カッコわるー)
思ってもどうすることもできません。
 「あらあら、可愛いい‥‥見えてるわよ。ちょこっとごめんなさいね」
めぐみはあわてている庄兵をよそにこぼれたわかめや豆腐を拾い上げて、台所に行くとふきんを持ってきて掃除をし始めました。
 (か、かわいいだなんて、びっくりして縮こまっているだけや)
庄兵は鼠径部の熱さを感じると同時に、頭の熱さも感じていました。なにをかくそう、めぐみは庄兵の憧れの女性だったのです。恥ずかしさと情けなさで立ちすくんでいると、めぐみはさっさとふきんを洗い終えて、待合室へと消えていきました。

 「ごめんなさいね、勝手に入り込んで。いつも物静かな庄ちゃんが大声を出すから、気になってしまったのよ」
 治療室に入ってから、そう言われても、顔のほてりはなかなか引くはずもありません。なじるわけにもいかないし、お礼を言うのもシャクでした。
 予約もなしにやってきためぐみを治療している間、話しは上の空で早く時間が経過することばかりを願っていました。
 「さっき、奥の部屋ば初めて見たけど女の子の部屋みたいね。うちの部屋よりもきれいだし、彼女が掃除してくれるの」
 「彼女なんていませんよ。じぇんぶうちでやるけん。あ、時々ヘルパーしゃんがやってくれますけどね」
 「明るい色のコーディネイトで気分が高まるちうか、だけど悪く言えば、ちょこっと狂気的とも言えなかこともなかかな、ウフフフフ」
そう言いながら、めぐみは笑うが、別に腹は立たなかった。私生活を見せたことが庄兵の気持ちを、さらにめぐみへと傾斜させるのでした。
 めぐみという女はつくずく不思議な女だと思う。自分のことはあまり語らないし、何の仕事をしているかも話さない。ただ、大分の高校を卒業して博多に出てきたことだけはわかっていた。
商売がら聞き上手だと自分では思っていたが、めぐみのほうが一枚上だった。年のころは30代だと思えたが、20代でも通用すると庄兵は思っている。神秘的で近寄りがたいオーラは庄兵をますます夢中にさせるのでした。その後のお客様を治療していても足が地についていないように、フワフワしている一日でした。


    4

 四年前の4月1日に、庄兵は独立開業を果たしました。先天性の盲人に比べると途中失明の人は感覚が鈍いのです。それは仕事の内容に大きく左右して、不利なことと言えます。稼ぎ額は彼らとは比べ物にならないほど少なかったのです。自覚はしていましたが、それをみせつけられた修行時代は、苦しいものでした。
 ところが、開業するようになると自分の不思議なポテンシャルに気づいたのです。後天性で視力を失ったものは、つぶしが利きません。そうは思っていましたが、隠れた能力は顔を出すものなのでした。
 患者さんと話しをしながら肌の弾力性を確かめると、既婚の有無や嗜好品の乱用や生活の乱れなどまでが、瞬時にわかるという能力です。特に女性は結婚している人、結婚せずに一人身ですごしてきた人、更年期で悩んでいる人、時には離婚歴や多産の有無までもがわかるのでした。
 もう一つの能力はその人の放つ匂いです。病的な人が服用している薬が、その人の身体に合っているか否かが即座にわかるのです。おそらく、女性ホルモンのバランスが放つ体臭がそれらを敏感に感じさせてくれるのであろうと、おもわれます。
 庄兵が患者さんにそれを指摘すると、医者に相談し、薬を変えます。体調は良くなるので喜んでくれます。このポテンシャルに気づいてからは、女性客が圧倒的に多くなっていたので、自信はますます強くなっていくのでした。
 この能力は仲間たちはもちろんのこと親兄弟にさえ教えていません。助平心が転じて、思わぬ能力に気づかされた、助平ポテンシャルに磨きをかけることは庄兵のライフワークだと、いつしか硬く信じるようになっていました。
 反面、男性客は嫌いでした。歯槽膿漏や胃の悪い人は独特の口臭があるし、一人暮らしの高齢者は小便くさくて、話しをすることさえ耐えられないのです。だが、実際はそんなことは言ってはおれません。我慢するしかないのです。そんなことを考えている日は、決まって男性客が多いのでした。


    5

 めぐみは小柄で肉付きがよく、長い髪はさわやかなシャンプーの匂いがします。オーデコロンもさわやかで、着ているものも手触りは最高でした。胸はあまりないのかブラジャーはいつもつけていません。どちらかと言えば、小さな胸が好みだった庄兵は、さらに想像をたくましくさせるのでした。
 うつ伏せに寝かせて、彼女の頭の匂いをかぐと、フッと気が遠のきそうになるのでした。それは庄兵を悦楽へと導いてくれるのです。その時間が庄兵の至福のひとときだったのです。
 「庄ちゃん、えらい鼻息が荒いわね、いつでんそうなの 」
突然のめぐみの言葉にあわてていたので、もう少しで鼻から音を出すところでした。
 「え、いやアレルギー性の鼻炎で鼻の穴が狭くなっておるから呼吸がしにくいからかいな、き..気にせんで 」
あわてて訂正しながら、めぐみに気づかれないように、またもや大きく息を吸い込むのでした。
 「庄ちゃん、また靴下にあながあいとるよ。ちゃんと確かめとるの 」
またもや、赤ッパジで顔がほてってきます。格好をつけるどころか、めぐみの前ではいつも、恥さらしをするほうが多かったのです。
 「あんね、うちのマスターが肩こりがひどいのよ。今度もんでくれる。かいなり強くもんでも大丈夫だと思うからお願いね」
 「え、マスターって。どぎゃん人なの」
 「あ、そうか。まだうちが働いとるお店のこと言ってなかったわね。うちスナックで働いとるのよ、そこんマスターなの 」
 初めて聞いた話しでした。川端商店街から少し入った路地のファッションビルの3階に、その店はあるのだそうです。
 水商売には抵抗はないのですが、いろんな男が出入りするところです。これだけの器量よしなら、男もほっとかないでしょう。そっちのほうが、庄兵には気にかかるのでした。

 朝の9時28分発の各停で大橋まで行き急行に乗り換えました。6分で天神に着き、さらに福岡地下鉄空港線各停で中洲川端駅へ到着です。
 まずは、キャナルシティ博多で映画を見ます。その後、無印良品を見て周り、フードテーマパークであるラーメンスタジアム2で昼食にしました。
 「今日はなんか元気がなかわね。おしゃべりも少なかし、買い物もあまりせんし体調が悪いの」
まゆさんが不振そうに尋ねてきます。
 「いや、そぎゃんことはなかよ。いつでん通りやけどな」
 実はこの後、めぐみの勤めているスナックを、まゆさんに探してほしかったので、どう切り出そうか考えていたのです。キャナルシティオーパでポケモンセンターフクオカ、どんぐり共和国、ジャンプショップ、ディズニーストアなどを見て回りました。
 「やっぱり庄ちゃん、今日はおかしいよ。見てても面白くなさそうよ」
まゆさんの鋭い指摘はさすがでした。隠すことができるはずもありません。思い切って、スナックを探して欲しいことを告げました。考えてみたら、下心などやましい気持ちがなければすぐにでも頼める話しです。下心がないとは言えないので、躊躇していたのでしょう。
 「なーんや、そぎゃんことやったの。お安い御用よ。でなんて店なの 」
 商店街に行くために歩道橋を降りました。この商店街は400mもあり、南にキャナルと串田神社、北にリバレーンと博多座にはさまれていて、活気在る商店街となっています。キャナルがつくられる前は寂れ掛けていたのですが、今では人も帰ってきてかなりのにぎやかさです。庄兵は、いつも寄る帽子屋には、目もくれませんでした。
 何本目かの路地を入って、ようやくファッションビルを見つけました。1階のプレートにある『ミヤラビ』の名前を確かめ、エレベーターの位置も確認しました。
 「庄ちゃん、一人で来るつもり、よっぽど可愛い娘がいるんやろ」
 「ちごうとるちごうとる、お客様の店ばい。機会があれば寄りたいと思っとるだけさ 」
そうは言ったものの、胸の高まりは最高潮に達していました。
 帰りの電車の中では、いつ行くか、そればかりを考えているのでした。


    6

 庄兵は一人歩きが好きです。途中失明のわりには勘がいいほうだと思っています。だが、ガイドヘルパーを利用するようになってからは自信は失われる一方なのです。便利になっただけの弊害もしかたないことでした。
 夕べ、めぐみが来たときに約束していた時間の30分前には中洲川端駅に着いてしまいました。改札口の横の風邪が通らないところで時間をつぶしていると
 「なんか困ったことでもあるけんか。お手伝いしようやか」
そう声をかけてくれる人が3人いました。いつもなら、ありがたく助けてもらうところですが、今日はその必要はありません。それにしても、必要なときは助けてくれる人はあまりいないのに、今日に限ってどうしたことでしょう。
 しかたなく、寒風ふきさく地上へ出ることにしました。ビル風が舞い、どこに隠れても吹きっさらしです。
 (こりゃ、まいったな。風邪ばひきそうや )
後悔しながらも鼻水を流して待つしかありません。
 「あらら、庄ちゃん早いわね」
めぐみは約束の10分前には来てくれました。早く来たのは庄兵の勝手です。それでも庄兵は少し機嫌が悪くなっていたのです。めぐみがさっそうと庄兵の腕を組んで歩き出したときには、もうそれは氷が溶けるように解消していくのでした。

 「いらっしゃいー」
店内に入ると、耳にはすぐにバラードが飛び込んできます。そして暖かな暖気に顔がゆるみます。数人の先客がいる気配がしました。
 「いらっしゃいませ、いつでんめぐみがお世話になってます」
マスターは以外とかん高い声でした。何か違和感を感じながら、庄兵も挨拶を返しました。そしてビールを注文しました。
 何人かのホステスの声が聞こえてきます。酒やけでのどがやられている声もあります水商売の独特の雰囲気に包まれると、それだけでも満足でした。
 (あまりスナックには来なかけれど、たまにはいいもんだ。だけんど、今までとはなんか雰囲気がちごうとるような〜)
その時、黙って飲んでいる庄兵の横にめぐみがやってきました。
 「ごめんなさいね、やっと落ち着いたわ。さあー、庄ちゃん飲みましょうよ」
めぐみにもビールをすすめ、カラオケを二人で歌います。
 「若い若い、さすが庄ちゃんは若いわね」
 「点字に書いてあるの、すごーい」
他のホステスやマスターにものせられて、カラオケに興じリ、かなり酒量は進んでいきます。あまり飲めるほうではないのですが、めぐみが送ってくれる約束です。庄兵は安心して飲んでいました。あわよくば、めぐみのアパートでお茶ぐらいは飲めるかなとかすかな望みもあったのでした。だから、しっかりと勝負パンツははいていました。
 やがて、客はいなくなりホステスたちも帰っていきました。携帯の音声で確認すると、12時半です。
 「庄ちゃん、もうちょっと待ってね。すぐに終わるからね」
めぐみは向こうで洗物をしているようです。ドカッと横に座ったのはマスターでした。
 「先生、今度い.いくからも.もんでね」
呂律があやしい。声は頭のてっぺんから出ているようです。さっき、マスターが歌った“ラブストーリーは突然に”はプロ並みでした。
 「マスターは歌が上手ですね」
そんな声もマスターの耳には入っていないようです。
 「せ.先生、か.可愛いー。た.食べたいわ」
横に座っているマスターはそう言って庄兵の肩を抱くのでした。
 「ムムム…………」
体中の血が逆流するのがわかります。自分でもかなり酔っていると自覚しながら、マスターの進めるビールをすするように飲んでいました。


    7

 めぐみに腕を組まれ駅前の屋台に入りました。
 「中ちゃん、ラーメンふたつ。にんにくたっぷり入れてね」
中ちゃんとよばれた店主とはかなり親しそうです。庄兵は先ほどのマスターの不思議な感触が、まだ右腕に残っていました。食欲はありませんでした。
 「どうしたの庄ちゃん。急に静かになりよったわね。ちょこっと酔った 」
 庄兵は生返事をしながら、ラーメンをすすりました。食べながらも、先ほどの感触が気になっていたのです。
 (あん柔らかさはなんやけん。あれは、おっぱいやなかんか)
そのとき、めぐみが言いました。
 「ヨッシー君がね、庄ちゃんのこと気に入ったって。また来てあげてね」
 「え、ヨッシーって誰のこと」
 「マスターよ、マスターはヨッシー君って言うのよ。今度もんでもらいに行くって喜んでたわよ」
庄兵はそこで尋ねました。
 「マスターって女みたいやな。おっぱいがあったような気がするがな」
めぐみは少し黙っていたが急に笑い出しました。そして、それはしばらく止まりませんでした。
 「ハハハハハ、ヨッシー君は男やなくて女なのよ。女やけど男なのよ」
そう言って、また笑うのです。庄兵にはわかるようなわからないような、頭がこんがらってくるのでした。これは酔ってしまったので頭がおかしくなったのでしょうか。いつのまにか、めぐみの笑い声も低くなっていることに気がつきました。
 「あんね、“おナベちゃん”なのよ。おナベちゃん。ヨッシーくんはおナベちゃん」
そう言うや、庄兵の手首を握りました。それをめぐみの下半身にもっていったのです。
 「ほら、触ってみて」
めぐみの足は広げられ、庄兵の手はめくられたスカートの中にむりやり引っ張りこまれたのです。それは、めぐみの股間でした。ガードルの下は盛り上がっていたのです。
 「ゲ、………」
あわてて、手をひっこめました。が、ひっこめた手はどこへ持っていけばいいのでしょう。
 「うちは“おカマ”おカマちゃんなのよ。ナベとカマでやっとるスナックなの。庄ちゃん、じぇんじぇんわからなかった?」
 言葉が出ませんでした。
 (ナベにカマ、ナベがカマばどうするとよ。いや、カマとナベが………。そぎゃんこと、わかるもんか)
 頭はガンガン。めまいもしてきます。後ろに倒れそうになりました。頭の中には深い闇の穴が開いていました。ゆっくりと、すいこまれるように落ちていく自分が、そこにいたのです。
 「あ、顔色が真っ白とよ。もう帰ったほうがよかとよ」
カウンターの中ちゃんがめぐみにいました。面白そうにしていためぐみでしたが、お金を払って庄兵をせかします。
だが、腰が抜けたようで庄兵は立ち上がることができません。

 庄兵はしばらくは仕事に熱が入りませんでした。時間があれば、音楽を聞きため息ばかりをつく日が続くのでした。
 自信を持っていたポテンシャルは思い過ごしの何者でもなかったのです。男とも知らずに、のぼせ上がっていた自分は、なんと独りよがりのお調子者だったのでしょう。何をする自信も、わいてはきませんでした。


     8

 正月三日のテレビでは、お笑いのタレントたちと晴れ着を着た女たちが、大声で何かをやりとりしています。スポーツ選手もその中に加わっています。かわりばえのない番組にうんざりしながら、葦菜はリモコンを次々と押しました。面白くなければテレビを消せばいいのですが、音が流れているだけで落ちつきます。やがて、少しボリュームをおとして、携帯を取り上げました。
 「今日はなんしよぉと。よかったらうちへ来なか。お酒もあるよ」
めぐみは二つ返事で応じてきました。やはり、やることがなくてゴロゴロしているようです。正月だからといって帰る家もない葦菜でしたが、めぐみも同じようでした。やかんの蒸気が勢い欲昇天しピーと音をたてています。レンタルビデオを片ずけてから、ヨロヨロと葦菜は立ち上がりました。小一時間もしないうちにめぐみは自転車でやって来ました。息をはずませながら、冷たいドワーフのケーキの箱を差し出します
 「ありがとうね、後で一緒に食べようね」
こたつの上の三段重箱の風呂敷を見つけると、めぐみは歓声をあげました。
 「すごーい。おせちなんか作ったの、ヨッシー君ってそぎゃんことできたの」
葦菜はあいまいに返事をしながら、受け取ったミンクのコートをかけると、台所へ立っていきました。そして、お重を開いて並べます。めぐみはさっそく箸を取り出します。うまそうに食べ始めためぐみをくいいるように葦菜はみつめました。
 「どうしたの、まさか毒が入っとるんやなかやろね」
笑いながらも次々と箸は伸びていきます。
 葦菜は大きくため息をつくと、みかんを取り上げ所在なしに口にほうりこみました。指の先は黄色くなっています。
 「元気がなかわね、明日から仕事よ。大丈夫?」
うかない顔の葦菜をよそにめぐみはおせちを食べる手はとめません。もう片方の手はしゃべるたびに顔の前で振られます。真っ赤なマニキュアが箸の動きとは別に、蝶のようにヒラヒラと舞います。めぐみのしゃべっている言葉は頭には少しもとどまりません。
 「うん、なんか休んだらよけいきつかみたい。さあー、明日から働くぞ。やっぱり身体ば動かしとるほうがよかみたい」
 「ハハハ、貧乏人には正月がいらんけんって言いたいの。どうせ正月にお店ばあけてもお客しゃんは来なかんやけん。やけど、こん勝男菜(かつおな)おいしいわね。ンンン、焼きあごも最高」
 ビールを飲みながらおせち料理を食べ、しゃべるめぐみの口はよく動きます。冷蔵庫から缶ビールを日本持ってきてめぐみの前に置き、葦菜も自分のコップに注ぎました。
 また、めぐみの紹介で行ったマッサージ店の男の顔が目の前に現れてきました。ひょうひょうとして何を考えているのかはわからない、それでいて全盲一人で不自由なしに生活しているのです。そんな男が葦菜は気になるようになっていたのです。
 それは、憐憫の情から発生したものと思ってはいたのですが、いつまでも消えることはなかったのです。
 年もおし迫った26日に電話で予約をしてから、男の店へ初めて行ったのです。家の前にはかなり大きな木が植えられていました。玄関を上がると、いい香りが漂ってきます。
 「よか匂いね、なんの匂い」
 「クリスマスバージョンのアロマとよ。グレープフルーツとジャスミン、サイプレスそいでクローブの四つから作られたものなんです今までんにこんような組み合わせの物は初めてなんとよ。すごく気に入ってるんです」
 アロマのことは葦菜はまったく知りません。男の態度はどこかよそよそしく思われました。お客様をもてなす言葉であることはわかっていましたが、よくしゃべって、明るい性格だと聞いていたのに。めぐみの話しとはまったく違っていたのです。
もみほぐす手も硬かったような気がします。おかげで、肩こりはあまりよくなっていません。
 (おナベちゃんが気持ち悪いのかいな、しゃあなかな)
そうは思いながらその男、また庄ちゃんの顔が現れるのでした。
 葦菜は、二日を費やしておせち料理を作ったのです。おせちなど作ったことはなかったのですが、本屋でレシピを買ってきて挑戦しどうにか作り上げたのです。
できあがったときには台所の周辺は散らかっていたのですが、片付けをしながら鼻歌が出ていました。
 そして元旦早々に男の店へ行ったのです。留守でした。正月は実家にでも帰っているのだろうかと思いながらも、昨日もまた三段重箱を持って店へ出向いたのです。やはり男はいませんでした。
 JR笹原駅は正月の人々でにぎわい、おせちを前のカゴに入れ自転車で立ち尽くしている葦菜に目をくれるものは誰もいません。駅のゴミ箱へ捨てて帰ろうと何度思ったかわかりません。何分間そうして立っていたでしょう。もったいなくて捨てるなど、とうていできなかった葦菜でした。それを今、目の前でめぐみがうまそうに食べているのです。複雑な思いでめぐみの食べっぷりをながめていたのです。

 「明日は2時ぐらいでよか? 櫛田しゃんにおまいりしてから準備ばはじめましょうよ」
めぐみにそう言われてからハッとわれに返りました。
 「そ、そうね、そうしようか」
上の空でそれだけ言うと、また男のことを考え始めます。振り払っても振り払っても、頭に浮かんでくるのでした。
 もし、あのとき庄ちゃんがいたらどうなっていたのでしょう。喜んで食べてくれただろうか。嫌な顔をされたかもしれません。そこまで考えて、葦菜はいなくてよかったのだと改めて胸をなでおろしました。とたんに、下腹部に鈍痛を感じました。それわ毎月のものの近いことを暗示するサインです。明日か、あさってにははじまるだろう。
 めぐみは、葦菜の不安感や焦躁感を知るよしもなく、なおも箸をすすめていました。


     9

 「お兄ちゃん、仕事のしすぎ?。手が痛いの? シップあるけど出そうか」
気がつくと、いつのまにか左手で右手をさすっているのです。あわてて左手からはなしたのですが、別に気にすることでもありません。ドギマギする自分を苦笑いでごまかします。
 「いや、いらん。大丈夫だ」
 庄兵はいつも三が日は八女市の妹夫婦の家ですごすことにしています。親は数年前に他界し、身内は妹だけになっていました。田舎町のひっそり感が好きでもありました。
 「ほんまに大丈夫、きつい仕事なんやけんホドホドにしてね」
三が日の間、妹に何回も指摘されるたびに自分は何をしているのだろうかと、頭をかいていました。が、あのときの感触を確かめていることは間違いないことです。
 庄兵は西鉄バスに乗り込むと、座席に腰掛けて寝る態勢をつくります。義弟と毎日のように酒をよく飲み、正月料理を食べ続けていたので胃がかなり疲れていました。二日酔いといわず三日酔いのようです。しかし、なかなか眠れません。
 気がつくと自然とまた右腕をさすっているのでした。車内にはFMが流れています。司会の大橋駅巨泉が問題を出して竹下駅景子が答え、リスナーが竹下駅景子が正解するか不正解か当てるというものです。
いつも楽しみに聞いている番組なのですが、今日は耳障りです。久留米を通って 西鉄福岡駅までの道中が思いやられます。
 庄兵は首をボギボギと鳴らしました。隣りの席の男は小さな寝息をたてています。正月帰りの客で車中はほぼ満席のようです。
 また左手で右手をさすっていました。顔は自然とゆるんできます。いつものように、またもや反芻は続くのでした。

 キチンと刈り上げられた頭は小さかったな。それでいて肩や腰は肉付きがよくて、太ももは女性の脚だったな。話し方は男のそれだったが、身体は完全に女だった。そのギャップを、生まれて初めて経験したのです。おナベの身体は神秘的であり、。異様というよりなやましいの一言だったのです。
 顔はほてり胸はドキドキ、ヨッシー君のしゃべっている声に耳をすますことしかできず、もっと沢山しゃべったらよかったと思っても後の祭りでした。体臭はほとんどしません。これも初めての経験です。化粧やシャンプー、香水の匂いがまったくしないのです。 何度も大きく深呼吸をして確かめたのですがわからなかったのです。人工的に作られた匂いはまったくしないのに、体内から発せられるであろう匂い、いや香りがかすかにあったのでした。何回も吸い込んでようやく、かぎ分けることができたのです。それは口では表現することのできないほど複雑な香りだったのです。
 神秘的な魅惑は夢中にさせる何かがあったのです。意識をしないように努めていても、庄兵の胸の高まりはおさまらなかったのです。
 自信たっぷりだったポテンシャルは、ことごとく砕かれました。砕かれても別段気落ちすることでもなかったのです。
 「庄ちゃん、めヴみちゃんのこと好いとぉやったんとちごうとる」
 「えー、そぎゃんことなかよ」
 「だって、お店に入ってきたときの庄ちゃん、すごくうれしそうやったな」
いたずらっぽく言うヨッシーは笑っていました。まさか男と知らずに、ほれていたとも言えません。まさか、ばれてはいないはず。心臓の鼓動が落ち着くのを待ってから、無理にはずんだ声を出しました。
 「やけど、男とは思わなかったな。完全に女だと思おったよ、ハハハハハ」
しらじらしく声は響きました。頼む、もうこれ以上この話題はしないでくれと願っていました。庄兵は黙ってしまいました。ヨッシーはそれ以上は、もうしゃべりませんでした。
 おそらく、そのころから右手をさわる癖がついたのでしょう。あの時、ヨッシーについて色々尋ねたらよかったと、今さらながら後悔するのでした。
 名前は何と言うのだろう。ヨッシーは短くしたとして淑子それとも良恵、義美かもしれないな。結婚はしてないのだろうか、ああいう商売をやっているのだからしてないのだろうな。でも、旦那がいても商売はできる。年はいくつだろう。まったくわからない。わからないことばかりでした。
 それにしても、なんでおナベなんかをしてるのだろう。いや、個人的な趣味を詮索してもしかたないか。アハハ、おせっかいなことだ。
 仕事が終わると、ビールを飲みながら庄兵はいつまでもそんなことばかりを考えるのでした。

 庄兵には結婚を意識した女がいました。修行時代の同僚です。二つ年上で面倒みがよく、世話をやくのが好きな女でした。
不器用で指名客があまりない庄兵を励ましてくれ、いつもそばにいてくれました。何事にも消極的で虚無な生き方をしていた庄兵に
 「えらい自信ばもって、前ば向きなさい」
まるで姉のように叱責する女だったのですが、気がつくと、彼女は同僚の一人を好きになっていたのです。そのころは女はもう二度とごめんだと思ったものです。

 あれからは、好きな女は出てきませんでした。いや、一方的に好きな女はいるにはいたけれど、告白などする勇気はわいてこなかったのです。


    10

 いつも一緒に帰るのに、今日はさっさと葦菜は帰ってしまいました。めぐみは後始末を終えるといつものラーメン屋に入りました。
 「ヨッシー君の気持ちは手に取るようにわかっとるんばいな。おナベやけど胸が大きいけんサラシでまかいなければならんし。やけど、まくと気分が悪くなるけん嫌がっていてな。男になりたいとは言え、乳房ば手術して取る気やらなんやらサラサラなかったけんな。ワイシャツの上には大きめのベストばはおり胸ば隠しとるんたい」
 独り言のようにつぶやくのでした。それは、つぶやくと言うより、明らかに中ちゃんに聞いてほしい声だったのです。
 「一人で来よると思ったら…ハハハ、どうかしたんか」
湯気の向こうで中ちゃんはそう言います。時間はかなり遅いので客はめぐみの他はいません。
 「ヨッシー君、あれは恋ばしとるよ。思いつめてかわいそうだわ」
そこまで言われて中ちゃんは初めてこっちを向きました。
 「ほおー、そうなんやろか。それで男、女?」
その口ぶりには、からかうような気持ちはありません。心から心配している声です。
 「男、男なんよ。ほら、こん前連れてきたやろ。全盲のあん男よ」
中ちゃんはしばらく空を見ていたが、すぐにうなずきました。
 「ああ、そうなのか。ヨッシー君もやっと春が来よるんだな。どっか世捨て人みたいなばってんくさあっったけど、よかったんやなかの」
二人の間にはしばらく沈黙が流れました。
 「やけん中味は女なんばいな。おナベになる気やらなんもサラサラなかくせに……。そう言えば、男になりたいやらなんやらとゆう言葉は
いっぺんも聞いたことはなかったな」
 中ちゃんはまたうなずきます。
 「うちなんか、あん子は男の格好ばしとるだけでなんかそれを隠れ蓑にしとるように思ってたんとよ。だって、明らかに女だってのがわかるときがあったもんね」
内在する女性のほのかには本人は気づくはずがありません。他人が見ればそれは一目瞭然。すぐにわかることなのです。
 「庄ちゃんが店に入ってきたとたん、ヨッシーの顔が輝いたんばいなー。あんとき」
 「プー、ハハハ。怒らんとってな。めぐみしゃん、それってやきもちかい」
めぐみはキッと中ちゃんをにらみました。
いつもなら、極力男と目を合わさないようにし、話しもはずみません。だから、そんな葦菜にはカウンターの中での仕事しかまかせられなかったのです。どこか、男を避けている葦菜だったのです。
 それが自分からカウンターを出て庄ちゃんの横に座ったときには、それは驚いたのです。おまけに庄ちゃんの肩をを抱いたりしていたのです。その時は、さすがに嫉妬心がわかなかったと言えば嘘になります。考え直してあきらめたのです。
 「こぎゃんことは今までんに考えられんことやったんよ。真夏に突然大雪がふるようなものばい」
中ちゃんはさらに大きくうなずきました。

 先日、庄ちゃんの店に行ったときのことです。
 「ヨッシー君、あれから来よる?」
 「いや、来なかよ。僕のマッサージが気にいらなかったんやなかかいな」
 庄兵はドキリとしながら平静を装って言いました。実は来てくれないことに内心は気がかりだったのです。めぐみに聞くこともできなかったのです。
 「正月ね、ヨッシー君のとこでおせちば食べたのよ。あん子料理は、あまりせんほうって言ってたけど今年は作ったんだって。おいしかったわ」
 庄兵は黙っていました。おせちを食べるのは当たり前だし、正月ってそんなものだろうと思っています。友達だから招待されてもどうってことはないでしょう。
 「庄ちゃんは正月はどうしてたの」
 「妹のとこで三日間ばすごしてきただけ」
ぶっきらぼうに言い放ちます。今までは、めぐみが来たらあきれるほどしゃべっていたのに、最近はあまりしゃべりません。葦菜のことを考えていることはわかっていました。
 (まるっきし、恋に慣れやなか大人ってやつほどやっかいなものはなかわね…。こっちがイライラするわ。優柔不断とゆうかだらしがなかとゆうか、まるでボウズみたいな二人なんやけん、ったくもう)
 「今度、一緒に焼肉でもせん?」
庄兵は、口をモゴモゴさせて何を言っているかわかりません。
 「ヨッシー君もよんでさ、楽しく飲もうよ」
 「あ、う、うん。よかね、いつどこでやる」
にわかに庄兵の声音が変わりました。焼肉などどうでもいいのです。葦菜と一緒ならどんなことでもいいはずなのです。
 (やれやれ、二人のために骨ばおるか‥)
 「肉は庄ちゃんが買って来てよ。お酒はヨッシー君、後はうちが買うから」
 「えー、一番高いのは俺かよ、めぐみちゃんずるいな」
そう言う庄兵の口ぶりはもうすでに納得しています。別に高い肉を買う必要はないはずです。安い肉でも十分なのですが、高い肉を意識しています。やはり、まんざらでもないのでしょう。めぐみの計略はズバリ当たりました。
 「じゃあー、ヨッシー君に相談してから日取りば電話するから」
そう言ってめぐみは帰りました。


    11

 めぐみから話しを聞いた葦菜は黙って見つめ返すだけです。話し終わるや、目は輝いているのにすぐには返事をしません。予想していたとは言えあまりの初心(うぶ)さにややあきれます。
 「あ、気乗りがしなかったらよかのよ。他の人ば誘うから」
そこまで言うと、葦菜はあわてだしました。ようやく、踏ん切りをつけたのでしょう。
 「行く、行く。いつでもよかよ」
そう返事を一言言うと、箍が外れたように、いつでも空いているから明日にでも行こうという勢いとなる有様です。
 (こりゃ、笑うしかないわね)
めぐみは内心で一人ごちしました。
 「うちたちの休みと庄ちゃんとこん休みが重なる日曜日がよかと思うんやけど。それでよかかしら、でも今週はうちがダメやけん来週の日曜日にせん」
わざと、じらすようにめぐみは言います。今週の日曜も実は暇なのです。どうせ、くっつく二人です。じらすのも高等戦術。よけい燃えると言うものです。
 場所は庄ちゃんのところ。これは葦菜の希望です。
 (まっこと、可愛くなかなアんだから。あきれるわ)
 「高木酒店のほうがうちの家からだと近いよな〜。庄ちゃんはなんでも飲めるのかいな、ウイスキーのほうがよかんか、なアーどっちがよかと思う。めぐみちゃんはワインだったな」
話しがまとまると、話題はそればかりとなります。
 「なんでも飲めるらしいけどビール党だって」
 (そぎゃんもん、どうでもよかんやなかの、知ったことか。フン‥)
 「そんわりには、お腹あまり出てなかったな。庄ちゃん」
しっかりと葦菜は庄兵を見ていたのでした。

 (肉は家の近くのいくた精肉店より天神に出たほうがいいだろうな。そうだ、やはり、百貨店のほうがいいに決まっている。大丸の柿安をまゆさんに教えてもらおうか。あすこは高級な肉がおいてあるらしいからな。ついでに、買い物に付き合ってもらうか)
定休日に、天神の大丸に出かけました。
 「なんぼぐらいのば買うの、何人ぐらいで食べるの」
 「うん、三人。どれぐらいするのかいな」
庄兵はウキウキ心が声に表れないように言ったつもりです。
 「グラム200円から上はキリがなかわね。うちの経験だと500円も出せばよかと思うけどね」
 「じゃあー、1500円のにしようとよ。ばら肉は800グラムは必要かいな、そいからカルビーに豚トロと…、え〜とテッチャンも、後はまゆしゃんにまかせるわ」
 「えー、そぎゃんに食べるの。よく食べるんやね。男ばかり三人なの。それでも食べきれるかいな」
 「ええから、ええから、おいしいのば頼みますわ」
あきれながらもまゆさんは注文してくれました。しめて1.8キログラム、21000円なり。庄兵は満足でした。
 あまりものが入っていない冷蔵庫を開けるたびに触る肉は、いとおしい。庄兵は冷蔵庫を日に何回も開け閉めするのでした。

 めぐみはグルメシティで野菜類を仕入れ、あつあげとフランクフルトなどを買いこみました。自転車のカゴに入れていると向こうから葦菜がやって来るのが見えました。後ろの二代には缶ビールが二箱くくられています。あれだけで50本は入っている勘定です。ハンドルにはビニール袋が下げられています瓶がカチャカチャと音をたてました。何本のワインを買ってきたのでしょう。
前のカゴには風呂敷で包まれた荷物が入っています。 葦菜の白い息がせわしく吐き出されています。それはたくましいの一言につきます。
一度バランスをくずすと、あっというまに壊れるガラス細工をしっかりと持っているのです。吹きすさむ寒風などまるで気にしていません。
 「あんた、えらい買出しやな、気合入っとるちゅうか…誰がそぎゃんに飲むのよ」
あきれながら葦菜がこちらへやって来るのを待ちました。かなり重たいだろうに、力強い押しかたです。火事場のクソ力とはこういうのを言うのだろうと思いました。葦菜に先導されるようにめぐみはついていくのでした。


    12

 庄兵の店兼自宅の玄関を入ると、待合室の奥はかなり広いリビングとなっています。キッチンには小さな二人がけテーブルとイスが置かれてありました。窓は広くカーテンも色鮮やかです。フローリングの室内には電子カーペットが置かれ、その上にはこたつがのっていました。すでに、ホットプレートが準備されていました。
 「ワアー広い。ここだけでうちの部屋より広いわ。なん畳ぐらいあるの。テレビも大きいわね、スゴーイ」
葦菜は大きな声を連発して出しています。正座をしながらまわりをキョロキョロと見回し、声は完全に女のしゃべり方です。
 本箱とラックの上に並ぶステレオセット。本箱には点字の本ばかりでなく、DVDやビデオもならんでいます。アニメやトレンディードラマ間径のものが多い。
 「えーと、確か13畳ちょっとやったかいな」
 「スゴーイ」
クローゼットは最近備え付けられたものらしく新しい。めぐみは庄兵のパンツの入っているところを知っています。葦菜に教えてやろうかとイタズラ心がわいたが、思いとどまるのでした。本箱にキチンと並べられている冊子は、性格を表しているのかもしれない。庄兵は意外と几帳面のようです。めヴみも改めて庄兵の部屋を眺め回すのでした。
 葦菜は感嘆の声を出し続けていましたが、いつのまにかめぐみが台所に立っているのに気づくと彼女も立ち上がりました。
 「お肉はどこ? あ、あったとよ。これね」
冷蔵庫を開けながら葦菜の声がはしゃいでいます。めぐみも野菜を切り皿に盛ります。その横に肉の袋が、ドサッと置かれました。
 「なん、こん肉。こぎゃんに誰が食べるの。ゴリラでも庄ちゃん飼ってるの」
庄兵は返事もせず、こたつに座り、おとなしくニコニコして待っているだけです。葦菜はと見ると、こちらも目は宙を浮いたような目です。
 (こりゃ、だめや。まっこと、庄ちゃんまで気合が入ってるんやけん。まるっきしおバカップル、フンお似合いよ。ほんのこつーバカにつける薬はなかとよ)
 やがて肉の焼けるいい臭いが漂ってきます。玉ねぎやかぼちゃも焼けてきました。
 「庄ちゃん、お待たせ。はい、バラ肉とトントロ。皿に入れたからね」
すでにビールをあおっていた庄兵はニコッと笑うと箸を取ります。そして口に運びます。味わうようにモグモグさせています。葦菜は一部始終を見逃すまいとジッと庄兵の食べるのをみつめています。庄兵にはわかるはずもありません。
 (オイオイ、そぎゃんに見たら食べられんけんよ。恥ずかしいっちゅうに)
めぐみは言おうとしたがまたもや口をつぐみました。見ているだけでアホらしくなってきます。
 (まったく。お邪魔虫なんはわかるが、かなわんな。こりゃー。どうせなら、アーンって口に入れてやったらよかのに。やけど、そんなことやられたら、こっちがたまらんわ、フン)
勝手に肉をつまみ、ビールをあおりました。めぐみのピッチは当然速くなります。庄兵のそばで葦菜の手つきは軽いものです。
 やがて風呂敷をほどくとチラシ寿司が出てきました。葦菜が作ってきたものです。
 「えらよかっぱい食べてね、いっぱい作ってきたから」
皿によそいながら出すとすましも添えます。
 (カ、世話女房そのものやんか、まったく見取られん)
 庄兵はと見ると、皿に入れられるものを次々とたいらげていきます。
 (あーあ、アホやね。明日は胃がもたれるちゅうのに。まるっきし、もう年なのば考えんといかんのに。中性脂肪やコレステロールが上がっても知らん。通風は持っやなかんか。まっこと、勝手にせえー)
 「やっぱり、一人で食べるよりうまい」
 「うん、やっぱり何人かで食べるのは最高ネ」
連呼する庄兵と葦菜である。二人ともニコニコ満面の笑みです。
 (なんばゆう、二人だけのほうがおいしいのに決まってる。やっぱり肉は一人もんと食べるに限る)
めぐみはこんなことは、二度とごめんだと強く思うのでした。
 やがて、庄兵がフニャフニャになってきました。まっすぐ座れないようです。座椅子に深く座りながら頭はふらついています。
 「じゃ、うち先に帰るわね」
葦菜は驚いてめぐみを見るのでした。
 「だったら……うちも帰るわ」
庄兵は黙っています。
 (庄ちゃん、がんばれ。やってまえー)
そんな、めぐみの願いもむなしく庄兵は居眠りを始め出したのです。せっかく二人だけにしてあげようとするめぐみの思惑など解さない二人です。めぐみと葦菜は後片付けをすますと、庄兵の家を出ました。
 「馬鹿だね、あんたとよ。チャンスばみすみすだめにして。泊まったらよかったのに」
自転車を押しながらめぐみは怒気をこめて言いました。
 「え、泊まるとよ。そ、そぎゃん‥」
 「なん言ってんのよ。あんたもう40ば超えてるんでしょ。減るもんやなかし。それより無理に奪ったらよかったのに」
明らかに葦菜はうろたえています。それからは何も言いません。


    13

 葦菜の家は母子家庭でした。小料理屋をやっている母は帰りが遅く、朝は遅くまで寝ていました。そして、おきだすと、そそくさと買い物へ行き仕事へ出て行くのです。仕込みを始めるためです。忙しくて子供の面倒をみる暇などは、なかったのでしょう。
 葦菜は朝目が覚めると、テーブルに準備してある食事を食べ学校へ出て行くのでした。時々は店へついていき、仕込みを見ては手伝ったりもしたものです。 食事はいつも一人で食べていたから、小学校の高学年になるとある程度の料理を葦菜も作れるようになっていました。他の子供のように遊びに行ったり外食をした経験は、数えるほどしかありません。
 盆と正月に、服やおもちゃを買ってもらうことが唯一の楽しみでもありました。それも、夜の仕事があるので母は早めに帰ってきて、いそいそと出かけていくのであわただしかったのです。買ってもらった服を試着し、おもちゃで一人遊ぶ生活をしていたのです。
 ぬいぐるみを抱いて一人で寝る習慣も、いつしか当たり前になっていました。孤独が、息をひそめてつまっているような生活は、葦菜を無口にするのでした。
 おばは不憫に思ったのか時々やってきては葦菜の面倒をみてくれました。が、彼女が結婚して忙しくなってからはそれも少なくなってきました。それでも、遠足や運動会では弁当を作り、母親の代わりに応援に来てくれたりしたものです。
 母親は小料理屋とは名ばかりの小さな店を持っていました。遅くなると店の二階で寝るようになっていたのです。いつしか、葦菜はそれも慣れっこになっていました。
 用があるときは店まで訪ねていくのですが、葦菜が大きくなるにつれ明らかに嫌がっているのがわかってきたのです。 母の化粧はだんだん濃くなり、化粧やけした二日酔の顔でけだるそうにしゃべる母を見るだけで嫌悪感を覚えるのでした。だらしなく着た寝巻から見える白い肌は、胸元までおしろいがこびりついていました。わが母ながら異様に写ったものです。
 眠れないので店まで行ったことが何度もありました。酔客にまとわりつくようにして送り出す母親。そんな母を見ていて、嫌悪感はますます強くなっていくのでした。その光景はいつまでも目に焼きついて離れなかったのです。
 その頃からだろうか。母親をだらしのない女だと葦菜は思うようになったのは。自分を育ててくれるために、仕方なくやっている商売。理解をしようにも理解することはできなかったのです。
 「いつも男を連れ込んでいる。しかも毎日変わっているみたいちゃ」
そんな噂も葦菜の耳にまで入ってくるのでした。田舎の噂話は残酷なものです。おひれがついて、それは容赦のないものでした。
考えてみると、小さい頃から葦菜を一人にして帰らない日がよくあったのです。それでも平気な母親だったのです。
 葦菜が中学にあがった秋ごろからは、母は家に帰ってこなくなりました。同級生たちも葦菜には寄り付かず無視しました。それは、いじめだとは思っていません。小さな町では噂話はすぐに広まります。そんな葦菜に近づこうとしなかっただけなのだと思うのでした。田舎町ほど噂話しは悪意に満ちて飛び交うものです。子供にになんの抵抗ができるわけもありませんでした。
 仕方がないので生活費だけはもらいに行かなければなりません。すると、まるでえたいの知れないものを見るような不遜な態度で、葦菜に接するのです。お金だけを渡すとすぐに2階へと上がっていくのです。
 そんな生活が長く続き進路を相談したくても母は相談にものってくれません。罪悪感のかけらもない母親だと、さらに強く軽蔑するようになっていました。書類をもっていくと、さも面倒くさそうに書いてよこします。幸い担任の女教師がよく気がついてくれる人だったので、こまごまとした手続きは助けてくれるのでした。
 地元の公立高校を選び手続きを自分でやりました。戸籍に父親の名前がないことがわかってももう、別に驚きはしませんでした。ただ、普通は『長男』とか『長女』と書いてあるらしい欄が、『女』と書かれていた。それがどういう意味なのかはうっすらとわかるような気がしたものです。
 しげしげと見ていた教師は
 「がんばるしかないちゃね」
と、葦菜に優しく言ってくれるのでした。その言葉には哀れみも含まれていることはわかっていましたが、自分でもどうしようもないのよと言っているのがわかるのでした。
 制服の手配から必要な学用品、その他の世話は、おばが手伝ってくれたのです。

 雨があがった夏の日のことでした。いつも、扇風機をまわしっぱなしにして汗まみれで寝ている葦菜は、すっかり寝入っていました。玄関のドアをたたく音で目が覚めたのです。狭いアパートの部屋は、小さな音でもひびきます。
 (誰だろう)と思いうかがうと
 「わしや、わしやがな」
おじの声でした。こんな夜中に一体何事だろう。けげんに思いながらも安心感もあり、ドアを開けてしまったのです。
 酒とタバコの臭いをさせてフラフラと入ってくるなり、おじは、葦菜の前に立ち、いきなり腕をつかむと自分のほうへ引き寄せたのです。びっくりして、葦菜ははねのけました。狭い部屋を逃げ回り、台所まで来たところで逃げ道はなくなったのです。
おじの手がパジャマのボタンをひきちぎり、床に飛び散りました。なおも逃げ回る葦菜は乳房を後ろからわしずかみにされてもがきました。
 「やめてー、おじさん何するのウ」
そのとき、背後で大きな声がしたのです。
 「何をやっとんそちゃ。あんたたち」
それは、おばの声でした。いつのまにか入ってきて後ろに立っていたのです。叔父をたたく音が響いたと思うと、おばは葦菜に怒鳴ったのです。
 「まったく、売女そ子は売女。あれだけせんないをみてやったそにうちそ旦那を引っ張り込んで。飼い犬にかまれるちゅうそはこそことだわね。この恩知らずが」
そう言い捨てるとおじを連れて出て行きました。
 葦菜はくやしくて怒りと恥辱で躯は熱くなり、恐怖感と無力さと絶望感を思い知ったのです。さらに、空々しさと阿呆らしさも覚えるのでした。
それは、高校に入ったばかりの年のことでした。
 葦菜のそばには誰もいなくなりました。お金をもらいに行くと母がその頃からかすかに笑うようになったのです。決まって、しげしげと葦菜を見るのです。その意味がわからなくて、ゾッとするのでした。その目はあのおじの目に似ていたのです。
 ただ、高校だけは卒業して早くここから出て行きたい。出て行かなければ取り返しのつかないことになると直感したのです。郷里へはあれから一度も帰っていません。帰るところはもうないと、信じていたのです。

 葦菜はめぐみの前で涙を流しながらポツリポツリとそう語りました。
 「こ、こぎゃんこと、誰にも言いたくなかった…。聞いてくれて、ありがとう」
何度もつっかえ、涙を流し唇をかんで嗚咽するのでした。めぐみは葦菜の肩をやさしく抱いて、一緒に泣くことしかできません。
 育児放棄のあきれたニュースが流れるたびに絵空事と思っていためぐみだったのですが、ネグレクトや虐待などは今に始まったものではないのです。
 葦菜は自分の考えで出奔し自力で生計を立てていたのです。世の中の辛酸をたった一人で、なめてきたのです。おナベに身を隠し、男と断絶するような生活をしていたのです。
葦菜が初めて好きになった男とぜひとも成就するように応援するしかないのです。それは、めぐみの使命だといつしか思うのでした。


    14

 翌日は庄兵は、かなり強い二日酔となりました。香水の匂いのきつい患者さんには閉口したし、昼食を食べるどころか水を飲んでも時々トイレでもどす有様です。気に入っていたアロマの匂いまで今日は憎たらしく感じるのでした。
 こんな日に限り客というのはよくやってくるものです。体臭や口臭のきつい客も多いのです。それは暖められた空気と共に増強するのでした。
しかし、ありがたいことに一人二人と仕事をこなすうちに、二日酔は確実に改善するのでした。
 ようやく夕方になって、食欲もわいてきました。リビングはまだ昨日の焼肉の匂いがたちこめているようです。動物性脂肪の独特の臭気です。おそらくカーテンやカーペットにも匂いがしみついているのでしょう。いつもなら、こんなことは嫌う庄兵だったのですが、倦怠感と同居するように心地よさも残っていたのです。自覚していたからこそ
辛抱できるのかもしれません。
 「ええと、脱臭剤がどっかにあったよな」
お茶漬けを食べた後、ふらふらと洗面台の周りをさがします。しかし、脱臭剤は見つかりません。身体がまだけだるいので、こたつに入って横になりました。まだ時間は早いのですが、寝れそうな気がします。

  二階のベランダの横の部屋でめぐみは洗濯物をたたんでいます。ステレオから流れてくるクラシックに聞き入りながら、太陽の匂いと柔らかさを庄兵は感じていました。
 (なんでここに、めぐみがいるのやろう)
不思議な光景だと思っていました。
 「ねエ、あんた。あんたっったら」
甘えるような声でめぐみがそばに寄ってきました。庄兵はドキリとして振り返りました。力強い腕に引っ張りこまれ、返事をする間もなく唇が吸われました。手は庄兵のズボンを脱がせかかっています。抵抗しようとしても身体は動かないうえに、声も出ません。されるがままに庄兵は身をまかせるしかなかったのですが、そこまできて嘔気がこみあげてきました。
 「ウウウ、オエー」
 まどろんでは目が覚め、覚めてはまどろむことを続けていたのです。それは、ほんの一瞬の間だったのかもしれません。気がつくと首すじには汗が浮き出ており、手はお尻を押さえているのでした。
 (ウウ、こりゃ悪夢やけん。二日酔のせいばかりではなく肉の食べすぎも原因だな)
そこまで思い当たるのに、しばらく時間を要するのでした。
 「やっぱし、風呂に入ってから寝ようか」
そう一人ごちすると立ち上がりました。スイッチのほうへ行こうとして何かが足に触れたのです。
 (ン、ムムム)
拾い上げてみました。スカーフのようです。かすかに焼肉とたばこの匂いがします。
 「めぐみちゃんのかいな、葦菜しゃんのかいな」
なぜか葦菜のものだと信じることにしました。四角く折ってたたんだり、長細くたたんで首に巻いてみました。柔軟材で洗ってやろうか。こういうものはクリーニングに出すものかもしれないな。考えあぐねているうちに、葦菜がわざと忘れていったのではないかと
思うようになったのです。それを取りに来てくれるのではないかと、淡い期待も生じてくるのでした。それはいつしか確信に変わっていました。
湯船につかって考えていると、胃がスーと楽になっていきます。

 夕べ、めぐみに話したことを葦菜は後悔はしてません。むしろ誰にも言えなかった事を明かすことができたので、胸のつかえが取れたような爽快感があります。だが、本当の悩みは、めぐみにも話せなかったのです。
 葦菜がおナベなどになる気はないことは、めぐみはわかっているはずです。そのおナベになるきっかけまでは彼女も思い知らないでしょう。
 高校を卒業すると葦菜は百貨店に勤めました。電話交換手として働き、女子寮で暮らしていました。ある日、葦菜を好きだという隣りの職場の男性に誘われデートをしました。何回かデートは重ねられ、かなり親しくなってから彼は葦菜を抱きしめました。葦菜も身をまかせました。とたんに、全身に鳥肌が立ったのです。それは旋律を伴い、全身の力が抜けていったのです。おまけに嘔気をもよおし、過呼吸も伴ったのです。オロオロしていたかと思うと、男は突然怒り出しました。
 「好いとぉでなかったら、ついてくるな。こっちが気分が悪いわ」
 何が起こったのかそのとき葦菜にはわかりませんでした。困惑はますます深まり、悪寒はまだしばらく続いたのです。
 男性に触れられると起きる症状は、その後も何回か経験しました。やむことはなかったのです。ただ、うっすらと覚えているのは男の目です。近づいてくる男の目を見ると、あの叔父の目が重なるのでした。
 そのとたん、身体は動かなくなり気を失うような感覚が生じるのでした。
 「ああ、また目や、目が光っとるとよ。いっつもあん叔父の目が。
うちがなんかええことになりそうになると、あん目が光るんや」
 葦菜はいつもそんな夢を見るようになっていたのです。まだ大人になることのできなかった、あの夜のことを。ようやく、最近になってそれに気づいたのです。
 何人目かの男に抱かれたとき、目をしっかりとつむってみたのです。それでも拒絶反応は起こるのでした。そんなことを考えながら、もう、あきらめるしかないと断念していたのです。
 そう言えば葦菜のほうから好きになった男性はいません。積極的に好きになったことがなかったと思えます。もしかすると、男性恐怖感から好意をもつこと自体を避けていたのかもしれません。
 めぐみは一見して女だが男だと知ってからも違和感はありません。だから、意識したことなどなかったのです。庄ちゃんはと言えば、はっきりと男であることを承知しているのです。庄ちゃんに関しては葦菜が積極的に好きになっていると言えます。それは、はっきりしていることでした。そうなると問題は、庄ちゃんに身身体を触れられたときにどんな反応がでてくるかが心配なのです。それを考えると、気分はめいる一方なのでした。
 めぐみに言われるまでもなく、あの時泊まってもよかったとおもっていました。でも、泊まっても以前のように拒絶反応が出るのではないか、それが最大の心配事だったのです。落胆、失望、むなしさの繰り返しはもうごめんだったのです。


    15

 標高597mの油山の中腹に位置するもーもーらんどから福岡市内を見渡せば、樋井川が南から来たへ伸びているのがわかります。牛や馬や羊たちがのんびりと草をはむ中、しぼりたての牛乳やオリジナルアイスクリーム、冷たいビールを味わうことができます。
 あれから、葦菜はまた庄兵にマッサージをしてもらいました。そのとき庄兵が、もーもーらんどへ行こうと誘ってきたのです。思いがけない誘いだったので返事はすぐにはできなかったのですが、当然うれしかったのは言うまでもありません。
 車を持たないので二人はJR博多駅までもどり、西鉄バスに乗りました。桧原営業所を降りるとひたすら歩きます。手引きなどやったことのない葦菜は持たれている右手を強く意識し続けていました。リュックには弁当とお茶が入っています。それも重さを増していることはわかっていました。
 「怖くなか?」
 「え、何が」
庄兵は軽く右手の肘のあたりを持ち、けげんそうに尋ねてきました。
 「だって、こぎゃんふうに目の悪い人ば引っ張るなんて初めてのことだし説明もへばってんくさ、怖くなかかいなって思って」
 「じぇんじぇん、うまいもんとよ」
 2月としては暖かい日でした。日陰はさすがにヒンヤリとしていましたが日光のあたるところは春を思わせます。葦菜の用意してくれたシートをベンチに敷き、昼食にします。
  遠くで牛の鳴き声が聞こえてきます。あまり人の声はしません。まだ、寒いので行楽に来る人は少ないのでしょう。
 「あー、よか気持ちだな。フンの匂いさえなかったら最高やけどな」
渡されたおしぼりで手を拭いてから、庄兵はのびをしました。
 「はい、おにぎり。サランラップはちょこっとめくってあるからね」
適度な塩がきいてうまい。そして串にさされたトンカツにかじりつきました。玉子焼きやしゃけ、ウインナーまでもが串にさされていました。あきれたことには、タクアンやらっきょまで串刺しになっていたのです。
 「庄ちゃんが食べやすいかと思ってね。ソースももうつけてあるから」
言いながら、葦菜も次々とほおばっているようです。
 「おいしいとよ。うまい、うまい」
そこまで考えて弁当を作ってくれたことには感謝です。こんな心のこもった弁当は初めてだったのです。 一般的に、恋人に対する愛情を軽く凌駕するものであり、ましてや、それとは明らかに異なる献身的なものを感じないと言えば嘘になります。そこまで考えながら、庄兵は少し憂鬱さもわいてくるのでした。
 どこかのコンビにで弁当を買おうと庄兵は言ったのですが
 「もったいなかから、うち作ってくるわ」
と、簡単に言われたのです。
 「ロールキャベツも作ろうと思ったんやけどね、食べにくいやろ、やけん持ってこなかった」
 「じゃ今度、家に食べにいきますよ」
葦菜は返事をしません。言い終わってから、(まずかったかなー)と庄兵は反省するのでした。しかし、葦菜は料理がうまい。しかも全盲の庄兵の食べやすさのことまで考えてくれているのです。ますます、庄兵の心は奪われていくのでした。

 おいしそうに食べる庄兵を見ながら、葦菜は別のことを考えていました。ここまで連れてくるとき庄ちゃんの腕を意識していたのです。弱く握っているようでもしっかりと握っていました。それは葦菜に不快感を与えないようにするためだったのだろう。まったく不快感などはなかったのです。むしろ暖かい手は、不思議な安心感がかんじられたのです。
 小さいが暖かくて太い手でした。なおも食べ続けている庄兵の手を見ていると、爪が短く切られていることに気づきました。
 男性トイレへも入りました。用が終わるまで、入り口付近で待っていたのですが恥ずかしさはありませんでした。こんなこと初めての体験であり、他の客もいなかったのも安心できたのでしょう。
 食後はさらに牧場周辺を散歩しました。登ったり下ったり、階段を進みぬかるんだ道も歩きました。ブルゾンの背中はやや汗をかいていたのですが、それは心地よいものでした。

 「今日はありがとうやったとよ。楽しかったです」
 庄兵は帽子を取って頭を下げました。そして帽子をかぶりなおします。そのとき、葦菜は庄兵のその手を取ったのです。それは一瞬の出来事でした。握ったその手を、自分の胸に持っていったのです。それも前のジッパーを反対の手でおろしていたものだから、セーターの上からもろに触る格好になったのです。
 「な、なんばするんか」
庄兵が怒ったような顔で言いました。とたんに葦菜ははじかれるように手を離しました。
 「あ、ごめんなさい…、でもうちね、あんたとどぎゃんことがあっても一緒にいたいと思っとるの。庄ちゃん大好いとるとよ」
 あまりに急な告白にかなり驚いたのでしょう。庄兵は目を丸くして、えっと言ったまま何も言いません。しかし次の瞬間、庄兵はきびすを変えすと玄関をバタンと閉めて入っていってしまったのです。
 葦菜はしばらく動けませんでした。なんで、あんなことをしたのだろう。自分でもわかりません。身内にみなぎっていた力が、急速になえていくのが自覚されたのです。

 翌日、めぐみがマッサージにやってきました昨日のことをめぐみに言うべきかどうかを逡巡している庄兵でした。葦菜が急に自分の胸に庄兵の手を持っていったことをどう言おうか。それは独身男性をからかうようにも思えるし、逆に考えると葦菜自らが素直に告白しているともとれます。尻軽な女でないことはむろんわかっているつもりです。そう信じてもいます。
 「庄ちゃん、どうかした?なんか悩みごとでもあるの」
 めぐみの言葉に、せき立てられるように庄兵は昨日のことを説明しました。たのしかったこと、うれしかったこと、そして別れ際の奇妙な態度と言動。楽しいデートのはずだったのに、口ぶりは重たかったのです。
 「ハハハハ、ヨッシー君。いや葦菜ちゃん、よくやったとよ。あん子にしたら上出来だわね。それであん子のおっぱい大きかったやろ」
めぐみのその言いかたに庄兵はムカッときました。話すんじゃなかったと今更思うのでした。。
 「あ、ごめん、ごめん。実はね‥あん子、小さいときにね‥‥」
 そう前置きしてから、めぐみは葦菜の少女時代のことを話しだしました。庄兵は手の動きを止めて聞き入っていました。話し終わるころには、めぐみは涙声になっていました。庄兵も思わず涙ぐんでしまったのです。
 「そぎゃんわけで、あん子男性恐怖症やったと思うんばいな。でも庄ちゃんはそれば救ってくれたんだわ。たぶん胸に触らせたのは拒否反応がでるかどうかば試してみたかったと思うよ。やけん、からかったりうわついた気持ちで胸に触らせたんやなかよ」
 「そ、そ、それで拒否反応はでたの」
悲壮感と安堵感で庄兵の声は震えています。
 「そぎゃんこと、知らんけん。自分で確かめてみたら。それより、もっと力ば入れてもんでよ」
庄兵は黙ってもみ始めました。めぐみももうなにも言うことはありません。おそらく、葦菜は拒否反応で悩み続けていたのでしょう。でも、この庄ちゃんは拒絶反応を取り除く、免疫抑制剤になることは間違いないとおもったのです。
 「やれやれ、これで二人はなんとかなるか。さあー、今度はこっちがよか男ば見つけなくっちゃ」
 葦菜の男に対する拒絶反応は、これで確実になくなったはずです。めぐみの顔がゆるみます。肩の荷がおりたと実感するのでした。庄兵の店を出ると、めぐみは家路への歩みを速めるのでした。
                       (了)


ご感想はメールにてメールはここをクリック


   ☆ 次のページへ

   ☆前のページへ

   ☆あんま屋のある風景へ、もどる