侵蝕(上)




      侵蝕(上)

  (1)カタツムリ


       1

 (よかった。間に合った。だいぶ安かった)
 玉枝はお目当てのドリンクが買えて、上機嫌で
自転車のペダルを踏んでいた。

 家の近くの信号が青になるのももどかしく 玉枝は角を左に曲がった。

 向こうから小学生のグループがやってくるのが見えた。
ランドセルを背負い、手さげカバンを持っていた。
大きな声でふざけあいながら、こちらへやってきた。

 その横を通ったとき右肩に衝撃をおぼえた。
 (アッー)
 横の公民館のブロック塀が目の前に迫ってきた。
カタツムリが見えた気がした。
一瞬、真っ赤な光が現れすぐに暗闇につつまれた。


     2

 「お気ずきになりましたか」
 玉枝が目を覚ますと、看護師が
ほほえみながら言った。

 「ここ、どこ。私どうしたの?」
 「覚えてへんの。大声がしたから、
私が救急車をよんだんよ」
友達の今子だった。

 看護師は出て行った。
見わたすとそこは治療室らしく
消毒薬の臭いが漂っていた。

玉枝はベッドに寝かされていた。
体位を起こそうとした。右手が痛い。
点滴の針がささっている。

 同時に、左の側頭部もズキリとする。
 (イテテテ、そうや。買い物の帰りに子供が…)

 そこへ、白衣の若い医師が入ってきた。
 「頭をうってますね。
一応レントゲンとCTを撮りましたが大丈夫ですね。
念のため、入院して他の部も検査をしましょうか」

 「いやです。帰ります」
 玉枝は自分でも驚くほど大声ではっきり言った。

 医師と看護婦は顔を見合わせる。
 「じゃあー、明日また来てください」

 「先生、自転車で来てもいいですか」
 (アチャチャ、何てこと言うんやろ)
玉枝は後悔した。案の定、医師はあきれ顔で言う。

 「あのね、救急車で運ばれるほどのケガをしたのですよ。
タクシーで来なさい。それとも…何か都合でも」
 玉枝は頭の痛みとともに足や腰にも痛みがあることに気づいた。

 「いえ、明日来ます」
 医師は何度も住所や誕生日、
年齢、今日の日付などを聞いた。

 「先生、ぼけてると思ってるんちゃうん」
玉枝は、うんざりして医師を制した。
この若い医師を見ていると
無性に腹が立ってくるのだった。

 それはとめどもなく、どうしようもないことだった。
若い医師は、やれやれと言うように
背を向けた。



      3

 家に帰ると嫁の小磯が、あわてて迎えた。
 「お母さん、大丈夫ですか。会社から帰ったら
学校の先生が来てビックリしたわ」
 「平気平気、大丈夫や」

小磯はほっと胸をなでおろし、
エプロンで手をふく。

 「小学4年生らしいわ。
明日また先生が謝りに来るって」
小磯はそう言いながら、お茶の準備にかかった。

 「もう大丈夫みたいね。私、帰るわね」
今子はあわただしく、帰っていった。

 玉枝はその余は、食欲もなく風呂も入らず
すぐに寝てしまった。



    4

 翌日、玉枝の側頭部ははれあがった。
見るからに左右の形がいびつである。
それは鏡を見なくともわかった。

それでも、玉枝はへいせいを装った。
 「おかん、えらい痛々しいけど大丈夫かいな」
息子は、味噌汁をすすりながら心配そうな声で言った。
 「大丈夫や。はれさえひいたらどうちゅうこと、ないわ」

 息子夫婦と孫娘が出て行ってから
朝食の後片付けをしようと台所へ立った。
チャイムがなった。

 「おはようございます。○○小学校の田中と申します。」
 女先生の後ろには5〜6人の小学生がついて来ていた。
 「昨日はすみませんでした。私のクラスの子供たちが
とんでもないことを…。さあーみんな、謝って」
 「ごめんなさーい」
 皆は照れくさそうに、まっすぐ玉枝を見て帽子を
取って頭を下げた。

 「いいのよ。もう大丈夫だから気にしないで」
 教師と子供たちは何度も頭を下げて、帰って行った。



      5

 「あの先生、ほんまにうるさいな〜」
病院からの帰り道、玉枝は今子に
うんざりとした顔で言った。

 夕べはちゃんと寝たのか、フワフワしたりしなかったか、
何か変わったことはなかったかと、
医師はしつこく聴いた。

それが、玉枝には我慢ができなかった。
 「何言うとるん。いくら若いつもりでいても年は年なんやから。
後でしまったとならんように、検査はちゃんとやっとかんとね」
今子は口をとがらせて言った。

 それにしても、血こそはでなかったものの
たんこぶがへこむまでは手のほどこしようがないとは
情けない。なりゆきにまかせなければならないのだ。
頭を洗うことすらできないのである。
 子供らへの腹立たしさはなかったが、
たんこぶを治すことのできない医師に、
玉枝のいらだちの矛先は向けられていた。





    (2)真夜中の蠢動


      1

 5日目のことだった。
 玉枝の異変に気づいたのは、小磯であった。

夜中にトイレに立ったとき義母の部屋がおかしい。
電気はついていないが何かが、うごめいている気配がする。
そっと近づいて様子をうかがうと、
 「ハア〜」「フー」
ため息のようなあえぎのような、小さな声であったが
それは、はっきりと聞こえた。

寝返りをうつ気配もある。
 (何をしてるんやろ)
 小磯は気になって寝床に帰ってから、
横に寝ている信吾を起こした。

 「ううん、大丈夫やろ。心配ないって」
そう言うと、すぐに布団をかぶって向こうを向いてしまった。
小磯は玉枝の部屋へ行くべきかどうかを、
寝床でしばらく遅疑していたがいつのまにか、
まどろんでしまっていた。



     2

 翌朝、玉枝は起きてこなかった。
 「あんた、お母さん大丈夫かしら」
 「大丈夫やろ。寝られへんかったんちゃうか」
信吾はまったく頓着する様子が無い。

 小磯が玉枝の部屋へ行ってみると
そこは静かで物音一つしなかった。
 玉枝は早起きのほうだったが、遅く起きるときもあった。
小磯が会社から帰ってから顔をあわせることも、何度かあった。
そう考えると、小磯の思い過ごしだったのかもしれないと思った。


     3

 小磯が会社から帰ってみると、
玉枝はまだ布団の中にいた。

 「お母さん、ただいま。気分でも悪いのですか」
 「いや、しんどいから横になっているだけや」
声はいつもどおりであった。

テレビはつけっぱなしになっていた。
居間で電話の音がした。
小磯はあわてて玉枝の部屋を出た。


 「おねえさん、今日ね…」
受話器からは信吾の弟の嫁の和子の声がした。

 「あら、和ちゃん今頃どうしたん」
 和子の話によると、今日だけで玉枝が5度も6度も
電話をしてきたらしい。

いつもなら用件をしゃべると、さっさと切る玉枝が
今日に限ってなかなか切ろうとしない。

最初のうちこそ世間話しをしていたが
だんだんとがめる口調に変わってきた。

 「私がしんどい時には、いつもいないんだから。
まったく役立たずなんやから」

 「あんたらは私が死んだらいいって、思っとるんやろ」
和子は困惑して、返事に窮してしまったらしい。


 「そう。私も夕べね…」
小磯は夕べの出来事を説明した。

 「頭をうったのが原因かしらね。
病院へ連れて行くほうがいいかもね」
 和子にそう言いながら受話器を置いた。

置くと、すぐまたベルがなった。


 隣の市に住むいとこの妙子であった。
やはり玉枝から昼間、何回も電話があったと言った。

 「あんたみたいな薄情もん、知らんわ」

 「顔を見せなかったら、私死ぬからねー」
明らかにいつもと違っていた。

みんなは玉枝が簡単に、死を選ぶ人ではないと
わかっている。
あわてふためいて、大騒ぎになることもなかった。
それにしても、何かがおかしかった。



     4

 台所に立った小磯は、はっとした。
玉枝が食事をした形跡がないのだ。

そう言えば洗濯物も干してなかった。
あのきれい好きで食欲旺盛の玉枝には
信じられないことだった。


 小磯は受話器を取った。
 「今子さん、昨日はうちの母とお風呂へ行った?」
 「いいえ、頭が重たいから行かないって。3日ほど
行ってないわよ。どうかしたの」

 玉枝は、家の風呂にはあまり入らず、
友達と銭湯へ行くのを楽しみにしていた。
おしゃべりも存分に楽しめるからでもあった。
小磯はあいまいに電話を切手から、玉枝の部屋へ言った。

 玉枝の横に座ると、少し体臭がする。
 「おかあさん、今日はごはんはどうしたの」
 「おなかが空かないから、食べんかった」
小磯の顔を見ずに玉枝は答えた。

 いつもきれいに整頓されている玉枝の部屋は、
衣服や電話帳が散らばっていた。



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