侵蝕(中)




      侵蝕(中)


     (3)身の置き場がない

 
     1

 あの事故以来、玉枝は自分で自分が
コントロールできなくなっていることを
はがゆく思っていた。

自分でもどうなっているのかわからなかった。
身体だけでなく、精神的にもおかしいのだ。

 夜、寝ようとすると寝れなくて
昼間、寝たくないとき、うとうと寝てしまっていた。

 寝れない夜は、布団に座って
 「ハ〜」
ため息ばかりが出てくる。

夜が明けるまでの時間が、長くてたまらない。
夜が恐怖と化していた。

 昼間、眠気をさけるために嫁の和子や妙子に電話をした。
話していると、だんだんいやみを言う自分がわかった。
申しわけなくてやめようと思っても、口からは次々と悪態が出た。

どうすることもできない自分がいた。
情けなさと、はがゆさで自己嫌悪に陥っていた。

 小磯には、そんな自分の醜態をさらすことはできないと強く考えていた。
一度、口からこぼれだしたら、とめどもなく出るであろう悪態の数々…。
考えるだけで鳥肌が立つ。

 そうしているうちに、外出どころか部屋から出るのも嫌になってきた。
外に出ると小学生を見るだけで身体がすくむ。
自転車が横を通るだけで、冷や汗が流れる。
なじみの町医者へ行きたくても、それはできなかった。


    2

 お風呂に入ると、頭を洗うのがつらかった。
白髪がめだってきていることもわかっていたが、まだ触るだけでも
頭が痛い。染め粉をつけると、よけいに痛くなりそうだ。

 湯船につかっていると、痛みが増してくるような気がした。
考えることはそんなことばかりであった。

 見るもの聞くもの、玉枝の周りの全てのものが
憎悪の対象となってきていた。

 好物のたこ焼きや、甘いものを小磯は持ってくる。
食べると痛みがぶり返しそうな気がした。

だから、食べられなかった。それは、小磯には言えない。
ただ、3度の食事だけは、食べなければならない使命感があった。
きっちり食べた。

 このままでは、元にもどらなくなりそうで、かろうじて
食事には執着した。


    3

 孫の梅子がやってくると、少しは落ち着く。
まだ高校生で、かわいい孫にはしんどい顔はできない。
反動で、和子や妙子には悪口をあびせて
しまうのだった。
なぜか、それは許されそうな気がした。


   (4)あのお母さんが…

     1

 小磯には玉枝が、まったくの別人になったように思えた。
あれだけ外出して、いつ帰るかわからなかった玉枝が。
部屋の中に“とじこもり”きりになってしまったのだ。

それどころか家族と顔を合わそうともしない。
 
 小磯が部屋へ行くと、布団に入ったまま寝た不利をする。
信吾が行っても同じであった。
 孫の梅子には少しは話しをするようだが、
梅子は「つまんない」とすぐに帰ってきた。

 「今しゃべることができるのは、あんただけなんやから
もっと話しをしてきたら」
 「だって…」

 食欲は少しは出てきたものの、
以前に比べるとかなりの小食になっている。

 小磯は会社を休んだ。
玉枝の身体のやせ方は、目に余るものがあったからだ。
病院へ連れて行こうとしても、玉枝はいやがって行かなかった。

無理にでも連れて行けと信吾は言うが、それはできなかった。


 玉枝は起きているときは、電話をかけていた。
和子や妙子がその相手である。
そのたびに、小磯に報告があった。

一日に何度もかけていた。
ところが、小磯には何も言おうとしなかった。

 (なんでやろ。私には言いにくいのかな)
小磯は少し寂しかった。


     2

 ある日、和子がたまらずやって来た。
すると玉枝は、懐かしい友人にでも会ったかのように
和子を部屋に招きいれた。

 「お茶とお菓子があれば、持ってきて」
このところ見たことのない、かなりの上機嫌な顔である。

 「どうだった」
 小磯は和子が出てくるのを待ち構えて聞いた。

 「おかしいわね。電話ではさんざん文句を言うのに
いざ私が目の前にいると、まったく普通なんよ」
 「ふ〜ん」
 「ほんまに、どうなってんのか。お母さんも
いよいよ“ぼけ”てきたんとちゃう」

 和子の言うことは小磯にもわからないことはない。
(まさか、あのお母さんが)
姑としての勤勉さは他にひを見ない玉枝なのだ。

 まるで別人が玉枝の身体を借りているとしか思えない。
小磯には、とうてい信じられないことであった。


     3

 小磯が夕食のしたくをしていると、梅子はテーブルに
ほおづえを突きながら言った。

 「おばあちゃん、怖いって言ってるよ」
とうとつで回りくどい言い方は誰に似たんだろう。
いらいらしながら梅子に聞いた。

 「あのね。何が怖いって言ってるの、わかるように説明してよ」
 「自転車に乗るのと、子供を見かけるんじゃないかと外へ出るのが
怖いらしいわよ」

 「あんたは、子供じゃないの」
 「私はもう大人だからでしょ」

 玉枝の様子のおかしくなったのは、あの事故が原因だったと
小磯にはわかっていた。

70をとうに過ぎた今でも、自転車で1時間ほど
かかる繁華街まで行って、買い物をするほど元気だった。

 友達とも月に1度ぐらいは泊まりの旅行に行ったり
日帰りで遊びにも行っていたのだ。

 それが今では友達から電話があっても、出ようとしないし、
何よりも外へ出るのを嫌がるようになった。
あの元気な玉枝が、こうも変わってしまうとは。


     4

 1週間が過ぎても、玉枝のようすは改善しなかった。
小磯は会社を休み続けるわけにもいかず、出勤した。

 玉枝は、昼間は寝てばかりで夜は起きていることが
多くなっていた。

 風呂には入るようになっているし、用意した食事も
食べれるようになっている。
しかし、一進一退を保っているように思えた。
時間がかかるかもしれないが、好転するのを
待つしかない。小磯は成り行きに任せるしかなかった。
 

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