めずらしく、雪が数回ちらつく寒い年だった。
「私の隣りの部屋のおばあさんが、あんまをして欲しいと
言っているんですが、出張してもらえませんか?」
渇いた低い声の男性だった。
(最後の客は7時ごろ終わるな。その後なら行けるか)
「いいですよ。どのあたりですか...」
ちょうど帰路にあり、そこは私には都合がよかった。
「あ、あったわ。ここよ」
メモを見ながら言う、妻の声は震えていた。
『○○荘』の明かりは薄暗く光り人気はあまりない。
1階部分は道路より低い。玄関までは下り坂。流し込まれたセメント坂が、
かろうじての滑り止め。私は慎重に玄関に辿りついた。
靴を脱ぎ捨て急な階段を上った。靴下に寒気が容赦なく
伝わってくる。ドアの横に、紙切れの表札が貼られていた。
ボールペンで書かれた画鋲止めの表札は、上角が折れ曲がっている。
私はここでいいからと、妻に小声で言った。
「誰、あいてるよ〜、」
「あんま屋ですが...」
ノックすると小さな返事が返ってきた。入ってすぐの2畳ほどの部屋には、
箱や袋が沢山積み上げられている。どこかの商店の倉庫?、
一瞬錯覚したが、横のふすまから声はする。
ふすまを開けると、万年布団が、同時に
バサバサの白髪の頭が目に飛び込んできた。
4畳半の部屋は、布団以外の場所にはダンボールや
化粧箱などが、ところせましと積み上げられている。
足の踏み場もない。窓にはカーテンもない。
「すまんな。わざわざ来てもろて。」
しゃがれ声は、私を現実世界へ引き戻す。
老婆の頭の上には手の届く範囲に電話やコップが、
畳の上にじかに置かれている。
(どこに足をふみ入れたらいいんや……)
「その辺、どかして入ってきてんか」
私は覚悟を決め、スーパーの袋や発泡スチロールの容器を手でまさぐりながら
足を入れるスペースを作った。
不自然な姿勢のまま、マッサージを始めた。
足の裏に何かが触れる。もみながら、そっと、
もう一方の手で触る。
(ポテトチップス??)
靴下の裏にひっついたカケラをつまんではがす。
それはまた、畳の上に捨てざるをえない。
彼女は、畳の上のテレビを見ている。
寝ていて見やすいのだろう。
( 80はとうに過ぎているだろうな)
私はようやく一息ついた。彼女は言う。
「このアパート、階段が広くて気に入ってるんや」
(ムムム...暗くて冷たい急な階段やのに…)
私は返答に窮する。見まわすと、整理整頓とはまったく無関係の部屋。
下座のほうには、汚れたカーテン。台所だろう。
が、生活の臭いはしない。
「病院には週に1度、かよっているんだけど
それ以外はこの部屋で寝ているんや」
彼女は独りごちし、生返事を私は返していた。
どう見てもお風呂はない。トイレも共同だろう。
肩から背中へかけてもみ、腰のほうへ移った。
布団をめくって、私はギョッとした。彼女は何かを抱えていた。
「これか。電気コタツの赤箱や。 これな〜ぬくうてな。
布団に入ってるときははなされんのや」
熱線部分を外して、それをバスタオルで巻いて抱えているのだった。
そういえば、この部屋の暖房器具は反射型の電気ストーブしか
見あたらない。一日中、つけっぱなしなのかもしれない。
枕が、5センチぐらい破れており、そこから籾殻がこぼれている。
そんなことはすでに、気にならなくなっていた。
ようやくあんまが終わり、彼女は1万円札を差し出す。
「つりは、いらんよ」
「そんなには、いりませんよ」
「いや、迷惑をかけたから、取っといてんか」
私の手の中に押しこんだ。私はおつりを横の御盆の上において、
そそくさと出てきてしまった。
それからも何度か、彼女の部屋を私は訪ねた。
市場で買ったみかんや饅頭を下げて行くと、
「気を使わして、すまんな〜」
相変わらず布団の中で、丸まったままうれしそうに言う。
「置いときまっせ」
隣りの部屋に、何かを置く気配。
「毎日近くの食堂から、弁当を配達してもらっているんや。弁当1食
3度に分け食べるんや。年を取るとあまり腹がへらんからな」
小さなボソボソ声も、私は最近聞き取れる。
「以前電話してきた男性は、だれ」
「ああ、向かいの部屋の人やがな。嫁はんに逃げられて
ここに住んでいるんや。たまに、娘と会っているらしいが、..。
よく面倒見てくれるんや、いい兄ちゃんや」
彼女は信頼している。
(本当にいい人ならいいんだが。このせちがない世の中
だまされなければいいが...
でも、いい人もいるんだな)
私の複雑な心境は、彼女にはわからないだろう。
桜は満開に咲き誇っている。南向きの彼女の部屋を、
日光が柔らかく照らしていた。
私は彼女の部屋へ入って、目を疑った。
別人の家に来たかと思えるほど、様変わりしているのだった。
あれだけ乱雑に置かれていた物が、きれいに
整理されているではないか。
物は多いが、キッチリとまとめられている。
この年の4月から、介護保険が施行され
ヘルパーが派遣されるようになった。
見かねた医師が、手続きをしてくれたのかもしれない。
その日、ちょうどヘルパーが来ていた。
横の部屋で待機していると、彼女がヘルパーを
怒鳴りつけ、色々命令しているのが聞こえてくる。
ヘルパーは私の顔を見て、苦笑いして出て行く。
私は彼女に、ヘルパーの仕事の大切さを説明しようと思ったが、
結局、口出しはしなかった。
あれから、5年。どうしているだろう。
たまにアパートの横を通るが、元気にしてるだろうか。
介護保険は高くなってるし、サービス料もけっして安くはない。
がんばってヘルパーに、毒つく元気があれば、いいんだが。
私は2階を見るたびに、胸がしめられるのだった。
さらに、2年が経った
私の店のある商店街に“デイケアーセンター”ができた。
そこで働くヘルパーから、彼女の話しが出てビックリ。
元気でやっていた。顔を会わせることはないが
肩の荷が下りた気がする。
彼女は私のことを覚えているだろうか。
☆ あんまのある風景へもどる
☆トップページへ
|