夕陽が落ちる

    1

 摂津市の一津屋で淀川から分岐する神崎川は、東淀川区の相川では安威川が、淀川区の加島付近では猪名川が合流してきます。西淀川区では左門殿川・中島川・西島川と分岐した後、大阪湾へと流れ込む。全長約19kmの川です。
 猪名川と合流する手前から河口までが、大阪府と兵庫県の境界となっており、途中の半月形をした中洲の佃は大阪府に属するため、この区間では、中洲の西へ分かれる左門殿川が府県境となるのでした。
 左門殿橋は全長147m。中央部分がやや高く、県境の標識が掲げられています。橋には休憩場所が数箇所設置されています。見た目にはわかりにくいゆるやかな勾配なのですが、自転車を載ってくる人々や歩行者の息づかいが勾配の有様を教えてくれるのでした。
冬は風が強いため寒さが厳しく、夏は昼間たっぷりと蓄えた余熱を放出する橋なのです。真ん中までやってきた自転車や人々が息を吹き返す場所、そこが県境なのです。
 洋二も帰宅のさいは、ここまで来たら我が家に帰ってきたようにホッと胸をなでおろすのでした。海に近い感潮域なので流れは常におだやかであり、満潮のときは潮の香りさえしてくるのです。
 公害の街で名を馳せた阪神間だったのですが、水質改善ははなはだしく進みました。今では釣りを楽しむ人々の憩いの場にもなっていました。

 洋二は毎朝8時5分前に、家を出ることにしていました。9時の開店までに洗濯物をたたんだり、掃除をしなければなりません。他に誰もいないので、すべて一人でやるのです。佃から左門殿橋を越えての毎日の出勤は徒歩で20分余りでした。
 国道は春分を過ぎるころから、洋二は朝日を背中に浴びて歩くことになります。それは日ましに暑くなってくるのでした。西から東へやってくる人々はまぶしそうに、目を細め、自転車でやって来る者はさすがにサングラスをかけていました。
 帰りは夕日を背に浴びることになり、洋二と逆に帰宅する者は、またもや西日に向かわなければなりません。まっすぐ向かって進むと、前方やや上部に太陽の光が入ってくるのです。この太陽のいたずらはピタリと視線に合致するのです。
洋二はありがたいことに、まぶしさとは縁がありませんでした。

 国道2号線は別名、阪神国道とも言い、国道43号線と共に阪神間の大動脈です。その周辺には大小の企業が集まっていました。
国道を歩いていくと、時々サラリーマンの集団にぶつかります。彼らは最寄の駅で降りて職場へと急ぐ面々。洋二のマンションも彼らの最寄り駅も国道2号線の南にあり、そして洋二の店舗も彼らの職場も国道2号線より北にあるのです。彼らは西から東へ、そして洋二は東から西へと移動するのでした。
国道を南から北へ渡らなければならないので、クロスすることになります。そうなると、おのずから両者は、ぶつかることになるのでした。、
 横断歩道を渡ってきた人々は、ある者は一人で、ある者は2人で、またある者は数人で連れ立って歩いてきます。そして横に広がったり斜めに歩いてくるのでした。不ぞろいな集団でした。3mほどの歩道は一時期だけ、彼らの通勤ラッシュとなるのです。おしゃべりをする者も、もくもくと急ぎ足な人もいます。
 洋二だけがその集団に逆流するように歩いていました。
 (まったく、この集団は行進するように歩いてくれとは言わんけど、もうちょっと何とかならんもんかね)
洋二は彼らとぶつかりそうになりながら、仕事場へと向かわざるをえません。歩きなれたところは、白杖は使っていません。だから、洋二が目が悪いことなど彼らはみじんも疑ってはいないのです。人ごみを避けていることに苦慮しているなどとは思いもよらないのでしょう。
 (向こうは向こうで邪魔だと思っているんやろな)
 時間をずらせばいいのですが、長年の習慣になっています。あえて、ずらす必要性も感じていませんでした。
 そんな集団の中に、一人気になる人物がいました。痩身にスーツをまとい、薄いグラスをかけて白杖をついていました。最初彼を見たとき、洋二は目を疑いました。
 (え、視覚障害者。ま、まさか)
サラリーマンの集団の中にいるその男の存在が信じられなかったのです。それは明らかに場違いだと思われたし、異様に映ったのです。
 会社勤めをする視覚障害者。洋二の脳裏にはいろんなことが浮かんできたのです。ヘルスキーパー(産業マッサージ師)だろうか。事務職だろうか。はたまた、製造現場で働いているのだろうか。視力はどれぐらいだろう。そんな疑問が次々とわいてくるのでした。
 近くにはM製作所、S製薬、O製紙などがあるのだがどこの会社なのだろう。話しを聞いてみたいと洋二は強く思うのでした。洋二もかつては同じサラリーマンだったので、聞きたい話しは山ほどあります。 自分は会社を辞めざるをえなかったのだが、仕事場での理解のほどはどうなのだろう。
 むろん、ハンディを気にかけてくれ、面倒見のいい人も多いはずです。人間というのは、根っからの悪人がいるのかどうかは知りませんが、人をねたみ恨んで生きているような人がいるのも事実です。
洋二のいた会社の組合役員は、さも労働者の見方のようにふるまって発言をしていました。しかし、支持する政党の機関紙を購読するかしないかで支援してくれるかどうかは決まるのでした。自分たちの置かれている立場が磐石であればあるほど、それは可能となるものであり、洋二のようなごく少数派のために骨を折る者などいなかったのです。
 ましてや、未曾有の経済危機の中では己の身を守るのに必死であり、弱者のことなど、これっぽっちも考えてくれない連中ばかりでした。労働運動が盛りだったころと明らかに違う今、障害者の置かれている現状を考えると、いても立ってもいられなくなってくるのでした。

 その男はいつも誰かと連れ立ってあるいていることが多かったのです。たいていは同じ男でしたが、一人で歩いているときもありました。勇気をふり絞って声をかけてみようか。男とすれ違うたびに洋二は声をかけようとしましたが、声は出せませんでした。
 なんといって切り出せばいいのだろう。頭の中ではいくつかのパターンを想定していたのです。いつでも手渡せるように名刺は右ポケットにしのばせていました。いざ、声をかける段になって、他の人の目も気になってきました。声をかけることはとうとうできませんでした。右ポケットの名刺はボロボロになって、何枚捨てたのか数え切れません。
 気になる男を横目に見ながら、とうとう数年が過ぎてしまったのでした。


    2

 隣りの店のシャッターが開く音がしました。ギシギシ.ガタガタ、いかにも古めかしくて長い間、開け閉めなどしていない音です。
 (お、帰ってきたか)
 お客の肩に針を刺しながら、洋二は聞き耳を立てていました。やがて引き戸が開けられ、中に入っていくのがわかります。
 洋二の店は5件長屋の真ん中です。どの家も11坪の広さで、昭和の初めに立てられた、かなり古めかしい造りです。シャッターは鉄製で開け閉めするたびにギシギシとうるさい音をたてていました。どの店のシャッター音なのかがわかるほど、それは特徴的だったのです。ここに入って2年目の春、シャッターの鍵が壊れたのです。鍵がかからなくなりました。外から見るだけではわからないのですが、少し持ち上げると簡単にシャッターは開くのです。鍵の意味をなさないのです。しかたがないので修理を依頼したところ、部品がないとの回答で、結局新調することになったのでした。今ではアルミの軽いシャッター音が周りとは明らかに不釣合いな軽快音をたてていました。
 5件長屋の西の端は文房具店、そして洋二の店の2軒しか営業はしていません。東隣の2軒は売り店舗になっていたり、商売をやめて空き店舗になっています。西隣は、数年前まで中華料理店だったのです。その店の主が1年ぶりに帰ってきたのでした。
 洋二はお客が帰ると、治療室の西の壁をコツコツとたたきました。しばらくして向こうからも同じ音が聞こえてきます。やがて、玄関のドアが開けられ洋二のところへ彼はやってきました。同時に、外の熱気も一緒に連れてきたのでした。
 「おー、先生、久しぶり。元気にしてた」
 「おお、陳さん、そっちこそ元気やったか」
彼はほおを紅潮させはずんだ声を出しました。おデコに鬢がはりついているのか、指でかき上げ、手の甲でおデコをぬぐいました。
 「ああ、やっぱり大阪は暑いな。上海も暑いけど大阪の暑さはまいってしまうわ」
洋二は冷コをコップに注ぐと彼の前に出しました。それを一気に飲み干すと洋二の手にあった冷コのボトルを取り上げて、彼は勝手にまたコップにつぎます。2杯目を飲み干してから、袋を洋二のほうへ差し出しました。
 「いつも変わりばえせんけど、はいこれ」
 「すまんな。あまり気をつかわんでもええのに」
それは中国のお菓子と8年ものの紹興酒でした。
 「おかげさんで、電気も水道もガスもちゃんときてるわ。ありがとう。ま、しばらくは尼で暮らすことになると思うよ」
 前もって連絡があったので今日の日に間に合うように洋二は段取りをつけていたのでした。1年ぶりに帰ってきた家はおそらくかび臭いでしょう。風通しをよくして、掃除もしなければならないはずです。
 「ほんで、仕事のアテはあるんか」
 「いや、何人かの知り合いはいるから彼らに相談するのと、明日にでも職安に行ってみるつもりや」
そう言うと、またコップにコーヒーを注ぎます。
 「おいおい、陳さん、あいかわらず甘いのが好きやな。血圧が上がるで、血糖値も上がってるんじゃないんか」
洋二の言葉は完全に無視されるのでした。
 
 陳は先月まで無錫(ムシャク)のアルミメーカーに勤めていたのです。そこは日系企業でした。彼は上海語と北京語ができるので営業マンとしての成績は郡を抜いていたらしいのです。地元の知り合いも多かったのですが、彼の能力も高かったのです。日本人スタッフからはねたまれ、中国人スタッフからは尊敬のまなざしで見られたのです。
 北京オリンピックが終わったらバブルがはじけると噂されていましたが、それを待たずに中国の景気悪化は始まっていたようです。人件費の高い沿岸部から内陸部へと工場は移転していきました。それだけにとどまらず、人件費の安いベトナムやタイ.バングラデシュに移る法人が多くなっていったのです。
 陳も給料カットと、労働条件の悪化に耐えられずやめてしまったのでした。できれば、中国本土にある日系企業で働きたい。それは陳の希望だったのです。第一義的に厚生年金がかけられるからです。
 陳が日本に帰化したのは38歳のときです。国民年金をもらう資格は当然得ていました。厚生年金をかけていた期間は7年。国民年金だけでは少ないので、できるだけ厚生年金をかけれる企業が、というのが陳の希望でした。
 陳の父親と郭さんの母親はまだ健在で、上海に住んでいます。だから、近くでいつでも会えるのが理想でもあるのでした。57歳にして、そんな都合のいい会社があるとは洋二には思えませんでした。
 失業保険をもらいながら、陳の求職活動は続けられました。が、条件に合う会社はなかなか見つからなかったのです。

 洋二は毎週木曜日に送られてくる「点字毎日」に指をはわせていました。ある記事に、手が止まりました。『私の仕事』というコーナーです。「尼崎の森村製作所に勤める、中川さん。」
 (あ〜、この人や。あの男のことやんか)
洋二はガバッと起きて、一気にそれを読みました。そして何回か読み返したのです。
 ピンポーン。
 (お、客か)
自動ドアが開いたかと思ったらそれは陳でした。時間をもて余している彼はときどきやってきては、しゃべるのです。「なんや、仕事中か」入ってくるなり、そんなことを言う男です。暇なときならいいのですが、仕事中に来られるのは迷惑なことです。が、そんなことは言えるわけもありません。
 興味があるかはわからなかったのですが、点毎の記事を陳に説明してやりました。
 子供が一人いて、年は洋二より少し若い。資材管理と材料の調達や選別などをやっている。音声ソフトを使って仕事をこなしている。神戸から電車を乗り継いでやってきている。1ページ半ほどの記事の中にはいろんな情報が詰まっていました。
 「この人、何年か前から気になっていたんや。話がしたいと思ってたんやけどようせんかった。よし、今度こそ声をかけるぞー」
あきらめていた感情が頭によみがえってきました。陳は説明をする洋二の口と手を黙って見ているだけでした。

 翌日、洋二は前の音に耳を集中させて歩いていました。その男は白杖を地面にたたきつけるようにして歩いてくるのです。一人のときは音が大きくなるのでした。
ところが、彼は友人と楽しそうにしゃべりながらこっちへやってきます。
 (あかん、明日にしようか)
翌日もそうでした。そんな日が何日か続きました。話しをしてみたいという決心は、少し揺らいできていました。

 初秋の風が吹いてはいましたが、残暑は厳しかった。背中には汗をびっしょりかいていました。ショッピングモールからの買い物客や車.自転車などに気をつけながら、左門殿橋の方へ洋二は向かっていました。
宇崎 「あ、先生。今帰り?」
声をかけてきたのは陳でした。散歩の途中だと彼は言います。運動不足の解消と、暇をもてあましての散歩なのでしょう。洋二と並んで歩きながら陳は、仕事がなかなか見つからないとつぶやくように言いました。その時、横断歩道をたたいて歩いてくる音が聞こえてきたのです。コツコツコツ。彼に間違いないと洋二は思いました。
 「ちょっと、待っててや】
陳にそう言うや、洋二はこの機会を逃すまいとゆっくりと男に近づきました。
 「あの、中川さんですよね」
 「はい、…………」
 「私、点字毎日であなたの記事を読ませてもらいました。それで、できたら話しがしたいと思いまして。失礼かとは思ったのですが………声をかけさせてもらいました」
 けげんそうな顔をしてサラリーマンの群れが通り過ぎていきます。彼も先を急いでいるようすでした。
 「あの、どちら様で……」
 「あ、失礼。これ僕の名刺です。よかったら、メールもらえませんか」
 「わかりました。それでは……」
初めて話したとはいえ、あまりにもあっけない一瞬でした。声をかけようと長い間思っていたのに、それはあまりにも短すぎたのです。
 「知っている人か」
 「いや、初めて話したんや。ほら、この間点字の本に載っている人のことを話したやろ。あの人やがな」
陳は何がおこったのかわからないようだったが、すぐに納得してくれました。
 「ふーん、日本の障害者は色々と恵まれているよな。先生もよくがんばっているしな」
そう言って、陳は反対方向へと歩き出しました。
 「そうや、先生。今度いいとこへ連れていくわ。女ばかりの家やで」
振り返った陳は意味ありげに大声で言いながら去っていきました。


     3

 食事をすませ風呂に入ってから、洋二はいつものようにメールをチェックしていました。中川からのメールは来ていませんでした。メルマガを読んで、最後のメー
ルチェックをしてから寝ようと思いました。そこで中川のメールを見つけたのです。

 受信日 9月16日
 川村様、こんばんは、中川と申します。点字毎日を読んで頂いたということで、お声をかけていただきありがとうございました。
 点字毎日から取材の依頼があった時、私みたいな平凡なサラリーマンでいいのかとちょっと戸惑いました。今働き、これからを考えている人、これから働こうとしている人に少しでも力になればいいなと思い、引き受けました。
 まずはご挨拶まで。

 それだけの短いメールでした。だが洋二は満足でした。そして返事を書き始めました。

 送信日 9月16日
 今日は突然声をかけて、すみませんでしたね。実は、数年前からあなたの存在は気になっていたのです。
白杖をついて、会社員らしいけど何の仕事をしているのだろう。ヘルスキーパー(産業マッサージ師)なのかな、なんて思っていました。ところが、点字毎日に出ている記事を読んで「この人だ」と思い当たったのです。
 私は西淀川区の佃に住んでおり、杭瀬の三丁目商店街で針灸マッサージ店をやっています。通勤の途中に中川様を見かけていたのです。
声をかけたいと思っていたのですが、集団で通勤する中で、お友達と話しながら歩いているあなた様になかなか声をかけることができませんでした。
 本日は、あなた様が一人で歩いていたので思い切って声をかけることができました

 私は、中川さんより3〜4歳年長です。会社勤めをしていましたが辞めました。いや、辞めざるをえませんでした。それが最大の後悔です。
盲学校へ入り、今の仕事をしています。そのとき、点字も覚えました。黄斑部変性症で、中川さんとは逆の眼疾です。視野があるため一人で歩けます。でも、細かいものが見えません。と、話し出したらきりがありません。
よかったら、私のHPを見てください。中でも、「お父ちゃんの盲学校日記」を読んでもらえればだいたいは、わかりますよ

 そこまで書いて洋二は、息をフーとついた。まだ書きたいことはあったが長文になるのも失礼だ。改めて書くことにして、洋二は床についたのでした。

 洋二の危惧していたことはおせっかいだったようです。中川は自分の要求を会社に話し、確実に実現させるために布石を踏んでいました。色変は夜間の行動が困難になります。それを回避するために彼は、盲導犬の使用を考えていました。会社は全例がないと最初は拒否していたらしいが、彼の努力は会社を納得させたのです。

 送信日 9月20日
> 私は待っていてはいつになるか分からないと思い、いくつかのメーリングリストに
> 投稿し、盲導犬を受入れている民間企業がないかお聞いてみました。
> そうしたところ10人以上の人から返事があり、その情報を会社に提示しました。
> 会社も他の盲導犬協会に問い合わせをしてくれ、その協会から会社に説明にきてく
> れました。
> それからすぐに会社も受入れを許可してくれました。

 ここらへんが良い企業だと思いますよ。昨年でしたか一昨年でしたか貴組合が赤旗を挙げているので、
 (へえ〜、今時珍しい組合もあるもんだなー)
と感心しながら通ったものです。おそらく、組合も良心的なんですね。

 洋二は心の底からそう思いました。あきらめないでがんばっている中川に改めて応援し
ようと思ったのですが、考えてみたら何もできるわけもありません。

 受信日 10月2日
> 今朝、もしかしたら川村さんが歩いているかもと考えながら歩いていたのに、全く
> 気づきませんでした。
> たぶん前から歩いて来られていたのでしょうね。
> ちゃんと挨拶できずに申し訳ありませんでした。
> 今度はちゃんと挨拶しますので、よろしく。

 いえいえ、そんなことは気にしないで。突然、声をかけたこっちも悪いのですから。
実を言うと、こっちも通り過ぎてからわかるような始末で、いつも中川さんを判別できるわけじゃありません。アハハハハ

 そう、書きながら洋二は、二人とも見えていないことを改めて自覚したのです。
少し考え事をしていたり、よそ見をしていたら気づかずに通り過ぎる。まったくもって厄介な目を持っているものです。
 中川は最初に「おはようございます」と言われてとまどっていた。おそらく、自分に対して言われているだろうことはわかっていたはず。でも、相手が見えないので返事をするのに躊躇していたのでしょう。もしかすると、洋二であろうとは思っていたはずだ。それは洋二には手に取るようにわかっていたのです。
 「お、おはようございます」
疑心暗鬼とまではいかないまでも、不安があります。だから、次回からは洋二は
 「中川さん、おはよう」
と名前を言ってから大きく声をかけるようにしたのです。すると、中川は安心したかのように返答を返してくれるのでした。おかげで二人の挨拶はかなりスムーズにかわされるようになったのです。
 洋二にすれば、あのうっとおしかった集団が中川を見つけるためのゲームになり、親しみもわいてくるのでした。


    4

 「しかし、すごいよな。目が悪いのにそんなことができるなんて。先生のもっている音声ソフトとやらを入れて仕事をやるんだろう。中国じゃ、絶対に考えられないことだよ」
中川とのメールのやりとりを聞いた陳は信じられないと目を見張るのでした。
 昔、上海の郊外で陳と二人でバス停をさがしていたときのことです。どこかの寺を観光しての帰り、やっと見つけたバス停には数人の客がいました。その中に全盲女性が一人いたのです。彼女は見るからに重そうな杖をもっていました。赤と白のまだら模様で、まるで太い棍棒そのものです。洋二の持っている杖とはまるで違う。白杖とは思えないものでした。
 バスが到着して人々が乗り込みます。彼女はなかなか乗車口を見つけることができません。ゴンゴンとバスをたたく音だけが響いていました。その音は決して派手ではなく、遠慮がちに響く音でした。後からやってきた客は彼女の横をすり抜けていきます。まるで、不吉なものでも避けるように、身をかわして入っていくのです。
 横目で見る人はいますが、手助けなどする者は誰もいません。洋二は手を出して誘導しようとしました。それを見ていた陳がすかさず助けてやったのです。
 「シェーシェー」
その女性は小さな声でそう言って微笑みます。やや下を向いて吊り輪を持ち猫背でふんばっていました。茶色い顔に髪の毛はバサバサでした。座席を譲るどころか、安全な場所を確保してやろうとする者などはいません。
 「まったく中国って、ひどいよな。老人にはやさしいのに、障害者には冷たい国なんやからな」
そんな話しをしていても、回りの乗客の彼女に対する視線は冷たいままです。それどころか、手助けした洋二らを見る眼がよそよそしく感じられるのでした。
あのとき、色々と話しを聞いてみたかったが車内は満員だったし、途中で彼女は降りていってしまったのです。惜しいチャンスを逃したと後で悔やんだものです。
 「そういえば、プートン空港で先生のサポートをCAに頼んだとき言われたな。『なんで、目が悪いのに一人で来たんや。なんで誰かと一緒やないんか』って」
 「そうそう、あんときは唖然として言葉がとっさには出なかったよ。なんか、こっちが悪いことをしているように思ったもんや」
 そんな中国では民間企業で働く視覚障害者なんて、絶対にありえないことです。国営とか公営ならありうるかもしれないが、労働条件となると劣悪極まりなくなるはずです。
 そして、急に話題が変わりました。
 「先生が帰るとき、橋を渡るやろ。あの橋の横を入ったところに裁縫メーカーがあるんや。そこには中国人が何人か働いてる。研修って形だけど話しを聞いてたらひどいもんやで。彼女らと話しをしてたら、先生も連れていきたくなってね。興味があるやろ」
陳は洋二の性格をよく知っている。

 1990年から日本政府は外国人研修制度の規制緩和をすすめてきました。1993年には、技能実習制度を創設し、研修生及び技能実習生を低賃金労働者として中小零細企業に送り込む道を開いたのです。
 国際貢献や、途上国の人材育成という理念を掲げながら、実際には建設業、農業、漁業、縫製業、食品加工業など人手不足の分野を中心に、1年から最大3年のローテーション方式の安価な労働力として利用しているのです。
 最低賃金制度が適応されることもなく、住宅を保障してやれば、生かさず殺さず雇えるわけです。
 驚くことに裁縫メーカーの社長と陳は知り合いでした。そして彼女らの不満を陳に通訳させていたのです。社長と中国人女性たちからの苦情相談役にいつのまにかおさまっていたのです。
 戸建て住宅を二棟買取、二段ベッドを設置し一部屋に二人ずつ。合計14名の中国人スタッフが働いていました。日本は物価が高いから一人当たり月に10kgの米を支給しています。彼女らの給料は月に5〜6万円しかないので、陳が社長に交渉して米を認めてもらったようです。
 彼女たちは中国でもほとんどが地方出身です。黒龍江省や山東省、江蘇省の出身です。
ほとんどが農民であり、驚くべきことに夫や子供を向こうにおいて、出稼ぎに来ているのでした。彼女たちを月5〜6万円で雇えるのだから、日本人パートはそんなには
必要でなくなるわけです中国人側にしてみれば6万円でもいい賃金なのです。
 「餃子を作ってパーティーをやるんだけど、男一人では圧倒されるから、先生もついてきてほしいんや。ミンチ肉や魚.鶏肉なんかも買わんとならんのやけど、それは俺が買うからさ」
 なんや、そういうことか。しかし、洋二も彼女らからいろんな話が聞いてみたいので、すぐに応じました。
 そこは20畳ぐらいの広さでしたが、大型のテレビが置いてあるだけです。中国のテレビチャンネルが見ることができるのでした。テーブルの上にはお茶の入ったマグカップやお菓子、スイカの種が置かれています。
 陳は買い物袋から肉を出し、白菜をきざみはじめました。何人かが手伝い、他の者は自由にふるまっています。
 「日本に来てどれぐらいになるの」
そう質問すると半年の人や1年をすぎたという人もいます。来月には中国に帰るという者もいました。安徽省の出身で船で帰るらしい。1年間契約有効で帰りの船のチケットはもう購入済みと言う。1年以内の利用ならば、3.5万円ほどの船賃ですむのだそうだ。人民元だと2700元になるのです。48時間、蘇州号は快適だと彼女は言います。
 その彼女は1年で60万円貯めたと言いました。人民元にすると、3万9千元ほどになります。一般労働者の給与が1500〜3000元。3000元は高給取りだから彼らと同じぐらいか、それ以上を稼ぎ出したことになるのでした。安い賃金で雇われている不平も、案外それに対して辛抱ができるのも、現金で持って帰れるからかもしれません。
 上海や北京で働く農民工が遅配にあったり、賃金未払いでもめていたりする話しはよく聞きます。日本ではそんなことはないのです。
 「それにしても、月1万円ほどしか食費に使わないの。遊びになんかは行かなかったの」
信じがたい洋二は質問しました。
 「残業もあるのよ。それが月2〜3万円ぐらいあるから。それで買い物をしたり、奈良や京都へも行ったわ」
 やがて、テーブルを囲んで餃子作りが始まりました。みな早口で多弁です。洋二にはまったく理解できません。陳が料理を何品か作って、並べ始めました。
 次々と鍋に放り込まれた餃子がゆであがります。洋二のお椀にも入れられます。水餃子はあっというまにたいらげられます。何種類かの炒め物も、から揚げも次々となくなっていくのでした。開けっ放しの窓には、風がまったくありません。部屋の中は熱気でムンムンしていました。
 洋二が目が悪いと聞くと、彼女たちは興味ありげに聞いてきます。はり灸マッサージをやっているのだと言うと完成があがります。はり灸は中国では医師がやるものです。だからお医者さんかと聞いてきます。陳が説明してくれたが、理解はできるはずもありません。
 「そんなことはどうでもいいやん。で、みんなの周りには目が悪い人はいないの」
 「そう言えば、隣り村にそんな人がいるけど外になんか出てこないね。仕事もしてないみたいだったわ」
 「そうそう、アンモをやっている人もいるけど、乞食をやっている人もいるわよ」
 横から陳が中川という男が国道の向こう側の会社で働いていることを話した。やはり、目が悪くてその男は音声パソコンを使って、資材管理や材料調達の仕事をしている、そして洋二の友人だと説明したのです。
 「そう言えば、たまに白杖をついて一人で歩いている人をを見かけるけど、そういう人はみんな会社で働いているの」
 「いや、ほとんどは僕のように『はり灸マッサージ』の仕事をしているんだよ。会社勤めの人は珍しいくらいだよ」
みんなは一斉に感心したようにうなずきます。
 「音の出るパソコンって、どんなの、やかましくないの」
 「アハ、やかましくても音がなければ見えない者は使えないからね」
そして、洋二は携帯を取り出して彼女らに見せました。
 「ワー、字が大きい。それに薄くて軽い」
次々と手渡され感嘆の声がもれます。
 「日本での生活はどう」
 「みんな大声でしゃべらない。だって、話し方が静か。声も小さい。携帯で大声で
話している人もあまりいない」
なるほどな。確かにそうである。横から声が発せられます。
 「ごみが落ちてない。自動車がきれい。家がきれい。乗り物の座りごこちがきれい、乞食がきれい」
 「えー、乞食がきれいってどういうことよ」
これは陳が通訳してくれました。日本の乞食は中国の乞食に比べて品があると言う。ただ座ってお金をくれとは言いません。自分でどうにか食べているのも
すごいことだと言うのです。
 「日本の夜は明るい。北京や上海では明るいけど、地方は真っ暗。それに比べたら日本はどこへ行っても明るい」
 「私は夕陽が好きなの。コウリャン畑に落ちる夕陽が一番きれいだけど、尼崎の夕陽もきれい。夕陽が落ちるのを見ると向こうに中国があるんだなって、懐かしくなってくる」
 そう言う彼女はもうすぐ中国へ帰るのです。ご主人と子供が待っているのです。
『夕陽は沈む『だよと訂正などは言えなかったのです。
 あかね色の空に刻まれる尼崎の市街地は、オレンジ色と黒のシルエットに包まれていました。


    5

 10月には盲導犬の訓練のため、一ヶ月ほど会社を休むと中川からメールがきた。飲みに行こうと中川のほうから誘われたときは、もう9月は中旬をすぎていました。洋二は友人を連れて行く旨を伝えました。
 居酒屋で見えにくい二人だけなら、色々と都合が悪いのです。陳も納得してついてきてくれました。間近で見る中川は色が白くあっさりとしたいわゆる、しょうゆ顔でした。
 メニューを読んでもらい注文をすますと、さっそく話しがはずみます。お互いの家庭環境や、これまでの苦労話しがまずは出てきました。そして、盲導犬が楽しみであると彼は言うのです。うれしさを隠しきれないことがわかります。
 「こんなこと言ったら悪いけど、犬のために一ヶ月も休んで会社は何も言わないの。クビにならないの」
陳はあきれたように聞いてきました。中川は説明に困った顔をしています。
 「ハハハ、会社に通うために必要な身体の一部だからね。これが社会通念として認められる国、それが日本だということなんよ。中国では、とてもとても認めてもらえんわな」
 「確かにそれは言えてる。でも、俺にはどうしても理解できないよ」
その陳の言い分は、あまりにも正直すぎた。洋二と中川は顔を見合わせて笑うしかなかった。盲導犬の働きが理解できないので、仕方のないところだ。見たこともないのだろう。
 「中川さんが盲導犬を連れてきたら、一度一緒に歩いて見たらいいよ」
そうは言ってみたが、陳はまだ納得していない顔です。
 「それまでに仕事が見つかったら無理か。帰ってしまうからな」
そう簡単に就職できないことは陳も洋二もわかっていました。
 「そんときは、また日本に来たときに見せてもらったらいいやんか」
帰化したとは言え、中味は中国人。そんな彼に理解しろというのがどだい無理な話しです。障害者差別が当たり前のように現存する中国。まだまだ理解されるには、ン10年はかかるだろうと思われました。もしかすると、永久に理解されることはないのかもしれないなどとも思ってしまうのでした。

 「中川さんも点字で書いたり読んだりしてるの」
陳のそんな質問も中川は苦笑いで答えるしかありません。
 「いえ、僕は触ったことはありますがまったくわかりません。将来的には見えなくなると思うので、勉強はしなくてはと考えています」
陳にしてみれば、洋二が点字を読んでいるので視覚障害者はみな読めると思っているようだ。これも、なかなか理解できることではない。
 「陳さん、中国には視覚障害者がどれだけいるか知ってる?」
洋二は話題をそらすように聞いてみました。むろん知るはずもないとは思ってのことです。
 「いや、知らないよ」
 「あのね、日本では30万人とか35万人とかいわれてるんだけどね。中国は日本のおよそ10倍の人口だから300〜350万人ぐらいになるはずだよね。ところが、実際には900万人を超えるとか言っている。これは、DPI日本会議という国際的な障害者団体の発表している数字だから、間違いはないと思うけどな。地方に行けば不衛生でもあるし、結膜炎や白内障で視力を失う人が今でも多いんだろうと思うよ」
 国民の基本的なデータがない中国では実際はもっといるかもしれないと思いながら、あえてそこまでは言わなかった。ヒュー、と陳は口笛を吹きました。
 「ふーん、よう知っとるな。そうなんか」
 「ついでに言うと、日本では30万人のうち点字が読めるのは2万人弱。1割もいないんだってさ。最近はパソコンやデイジー図書があるから必要ないなんて公言する人もいるぐらいだからね。そのパソコン人口も2万人ぐらいみたいやな」
 そんな話しも中川は興味はなさそうです。盲導犬の話しにもどします。
 「やっぱり、視力は年々衰えていくんだろう。定年までの間安全に通勤するには盲導犬が必須やわなー」
 「そうなんですよ。特に残業をしなければならないときがあるから遅くなるとぜんぜん見えなくなるんです」
 「どんな子かな、かわいいやろね」
 「今度はカラオケにも行きたいですね」
 「うん、そのあたりも確認してきて。あのうるさい音の中ではどうなんだろうな」
陳は二人の顔を交互に見ながら何か言いたそうでしたが、口をはさんではきません。

 11月に入っていました。中川を見かけなくなっていました。そこへ久しぶりのメールが届きました。

受信日時 11月 9日
 川村さん、こんにちは、中川です。
ご無沙汰しています。お元気でしょうか?
10月6日から盲導犬との共同訓練に入っていましたが、おかげさまで予定通り、10月30日に卒業式にあたる出発式を終え、盲導犬ユーザーとなりました。
 私のパートナーは「ブック」という名前で、イエローのラブラドールレトリーバーです。先週一週間はなんとか会社に行くことができました。
 まだまだ初心者なので、犬の排せつが心配で今はちょっと疲れ気味です。
 でも歩くことはほんとうに安心です。
 なお、カラオケは大丈夫とのことですが、なれるまではまだ無理ですね。
これからは犬連れの私を見つけて下さい。
では失礼します。

 文面には相棒ができた喜びと困惑が混じっていた。その二人をようやく見つけたのは、2週間ほどたってからのことです。ブックは元気で中川を勢いよく引っ張っていました。
 「お、おーい、中川さん。川村です」
ものすごい勢いで歩いていました。あやうく見逃すところだったのです。
 「あー、この子がブックか。けっこう大きいんだな」
洋二がそう言ってブックの頭をなでると、手の匂いをかいできます。
 「ハイ、いい子です。もうかわいっくてー」
そう言う中川の声もはずんでいました。
ブックは話している二人の間で(もう、帰ろうよ)と、まるで駄々っ子のように引っ張っています。人間の子供と変わりません。
駅へ向かう姿は生気にあふれていました。

 このころには、陳の就職口も決まりました。日系企業をと望んではいたのですが、なかなか難しく台湾系の企業の面接を数回受けたのです。そして廈門(アモイ)で働くことになったのです。
廈門は中国福建省の南東部、台湾海峡に面する港湾都市です。上海までは1時間の空路だが、日本で働くよりも陳は廈門を選んだのでした。
 その後、メールは届くものの、文字化けがひどく判読はできません。
電話も一度あったのですが、われるような音で陳の言うことは半分もわかりません。陳の娘に連絡してみると、父はパソコンに詳しくないのでしばらく時間がかかるだろ
うとだけ言うのでした。今回の会社には日本人はいません。日本語を設定してくれる人がいないとなると、かなりの時間を要するだろうとも付け加えるのでした。
 とうとう、陳に盲導犬を見せることはできなかったのです。でも、どこかで盲人を見かけたら陳は必ず手助けするだろうと思うのでした。

受信日時 1月14日
おはようございます、中川です。こちらこそご無沙汰しています。
帰宅後もいろいろとすることがあって、届いているメールを見るくらいで、メールを送信する余裕がまだありません。
 そうですね。スピードは速いと思います。
杭瀬あたりではあまり引っ張らないのですが、自宅近くになると早くごはんを食べたいのか、どんどん急いで返ろうとします。
 でも白杖のころのことを思うと、歩行に関しては安心してスピーディーに歩くことができています。
ブックも一日中会社で静かに待っていて、ほんとうによく頑張っていると思います。
ブックも家に来てから3ヶ月がたちました。ブックも私も家族もこの生活にだいぶ慣れてきました。時間に追われる日々ですが、安全に心配なく通勤できています。
家では甘えん坊ぶりを発揮して、私の後をついてまわったり、飛び掛ってきたり、私が座ると足の間で寝転びます。かわいいものです。

 洋二は定休日はなるべく散歩をすることにしていましる。なかなか運動ができないので、せめて歩くことぐらいはと考えていたのです。午前中は雨が残るだろうという予報だったのですが、雨は3時ごろまで降り続きました。ようや
く、散歩に出ることができました。
 左門殿川を北から南へ下り、国道43号線を尼崎の方へと歩いていきます。大物の交差点を北上し、阪神国道に入ります。そして、いつも通る道を歩いていました。
ショッピングモールの近くまで来たときでした。
 「シェンセーイ、どこへ行くの」
女性の声でした。発音があやしいのですぐにピンときました。
 「アア、今散歩の帰り、えーと、あのときはごちそうさま」
 陳と行った、あの家の中国人であることは想像できます。しかし、名前などは覚えて
いません。さぐるように洋二はそう言ってみたのです。
 「うちも今日は仕事が暇だったから早く終わった。よかったら一緒に歩く。もうすぐ夕陽が落ちるから」
アーと、洋二は思い出した。夕陽を見るのが好きだとみんな言っていたっけ。

 (阪神国道から左門殿川の西側の堤を歩いて、阪神電車の高架をくぐって左門殿小橋を
渡ることにしようか、対岸へ渡れば家はすぐそばだからな。)
洋二は彼女の後ろに従いました。大きなショッピングビルが2棟並んでいます。駐車場は広くとられていました。宣伝のアルファベットのネオンが赤く光っています。
 左の堤防の向こうには、洋二のマンションが見えます。夕映えに、淡い色は巨大なシルエットを浮かび上がらせていました。
 左門殿小橋の上まで来ると、彼女は立ち止まります。皮もに反射する夕陽がまぶしいぐらいです。洋二も並んで夕陽に顔を向けました。まぶしさに目は細くなっていました。
 「いつ、帰るの」
 「うん、9月に帰る」
 「そうか、あと半年くらいなんやね」
答えながらも彼女は、視線を変えません。髪も顔もオレンジ色に染まっていました。
 「私の父、若い時に目の悪い友達がいた。その人は仕事で山に入って夜になっても帰ってこなかった。次の日、みんなで探しに行ったらガケの下に落ちていて死んだ。いつも、夜になったら見えなくなる。その友達を父がよく引っ張った」
夕陽に目をやりながら、彼女はそう言うのでした。え、何を言ってんのと洋二は一瞬思ったのです。
 「父は上海からシャーシエンされてきた。その友達も上海から来た。二人とも大学生だった」
 「え、シャーシエンって、アッそうか、下放のことね。へえー、そうなの」
 「1968年以降中国文化大革命期において、毛沢東の指導によって行われた徴農制度です。都会の知識分子を農村へ送った、いまわしい事件でした。洋二は陳も下放の犠牲者だ
ったので話しを聞いたことがありました。
 彼女の父親は上海から安徽省の農村に下放され、上海へ帰ることができず住み続け
ていたのです。父親の友達は網膜色素変性症だったのでしょう。だから、日がくれたら見えなくなり、山に一人で残されて事故死したのでしょう。
 「陳さんは高級幹部の息子だったから上海へ帰った。父は頼る人がいなかったから、帰れなかった」
洋二を見ながら笑ってそう言います。その顔は何か意味ありげに見えました。
 「シェンセーの友達、犬と歩いている。たまたまに見た。目が悪くても働ける。日本のいいとこ。シェンセーも働いている。日本はすごい。私が思う。日本は花がきれい。だから心もきれい。今はメイファー(梅)がきれい。もうすぐ、インファー(桜)がきれい」。シェンセーも好き?」
 「ああ、好きだよ。あれを見ながら飲むビールは最高だね」
彼女は洋二の肩をおもいきりたたきました。花を見て穏やかな気持ちになれるのは生活が豊かだからであろう。お金儲けに邁進している彼女たちには、そんな余裕などはなかったはずです。でも、周りを見渡せばきれいな花が咲き乱れているのです。それがわかって帰国するだけでも、大収穫であるはずだと洋二は思うのでした。
 ましてや洋二や中川の存在を知り、弱者に対する気持ちが少しでも変わればもう言うことはありません。ぜひ、そうなってほしいと洋二は思うのでした。
 「夕陽が落ちた。じゃあ、帰るわな」
夕陽が完全に沈んだので洋二は彼女にそう言って背を向けました。
              (終わり)


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