明日から夏休み。
夕方5時過ぎだというのに日差しはまったく衰えていない。
スクールバスを降りて洋二は家とは反対方向に歩き出した。
ム〜とする空気の中で電話ボックスへ向かう。
「川村と申しますが、田村先生をお願いします」
「あら、川村さん。元気でした?ちょっと待って...」
環境測定士の川上だった。
(覚えていてくれたんだ)
少しほっとすると同時に、懐かしさがこみ上げてくる。
昼から先生は休診であることを、もちろん承知している。
「お〜川村くんか。あれからどうしてた」
太陽は透明のガラス板で焦点をあわすかのように
容赦なく洋二をねらう。
「元気でやってますよ。しかし、この年で勉強はつらいですね」
「そうか。そりゃ大変だな。ところで私にできることはないか?」
「これから会いたいと思うのですが、御都合はいかがですか」
「いいよ。事務所にいるよ」
ひたいをハンカチでふいたが、背中は汗が流れ落ちるにまかせるしかない。
洋二は足早にボックスを出た。
病院に入ると、そう強くはない冷房が、生き返らせてくれる。
若い女性が声をかけてきた。
「川村さんですか。どうぞこちらへ」
彼女は腕を突き出し、つかむように促してくれる。
「大丈夫。一人で歩けますから」
先生は受け付け係りに、目の悪い人が来るからと
気を利かせてくれたようである。
彼女は、洋二がかって何度も通いつめていたことを知らないのだ。
ここへ出入りをしなくなって、5年ほどになるだろうか。
私は苦笑いをし、彼女の後ろに従った。
2階の階段に近いところに《産業医学研究所》のプレートがある。
前に来たときよりも大きく立派な部屋に変わっている。
○○党が地域住民はもとより、公害患者や労働者のために作った総合病院で
職場における安全衛生全般を担う、医療相談.環境測定などをおこなっている。
軽くノックをしてから、入ると
何人かの顔見知りが声をかけてくる。
応接室の書棚には、職業病や法令関係の本がぎっしりつまっている。
久しぶりの雰囲気を感じながら、ソファーに腰掛けた。
「今年は暑いな。少し待っててや」
麦茶を出して事務長の柿内が向かいに腰をおろした。
「会社を辞めたんだってな。目が悪いなんて知らなかったよ」
洋二は労働組合の安全衛生対策部長をやっている時、
アスベストや有機溶剤.職業病にかんすることを、柿内によく相談していた。
意気盛んな洋二と柿内は気もあい、何度か飲みにも行った。
色々尋ねる柿内の言葉には、
興味本位よりも心から心配しているのが、よくわかる。
まだ話したらない柿内は、それでも先生が入ってくるとそそくさと出て行った。
半年前、川村が会社をやめたことを聞き、
先生は、わざわざ家まで電話をくれた。
落ち着いたら会いに行きますからと
洋二は約束していた。
「なんでやめたんや。なんで相談しなかった」
とがめ口調だった。
「実は....」
黄斑部変性症であること、職場と妻との葛藤などを洋二は話した。
腕を組んで聞いていた田村は、何度もうなずいた。
「し、知らんかった。そうだったんか」
ため息とも、あえぎとも取れる声である。
「ところで今年、幾つになる」
「もうすぐ37です」
「何やまだ37か。頭にいくらでも入るや顱」
ニヤリと笑う。
洋二はカバンから解剖学の本を取り出す。
田村の前に広げた。
「これ全部で12巻あります。まだ点字を読むのがおぼつかないので
点字の勉強と解剖を並行してやってます。
図が点図だからよけいにわかりにくいんですわ」
田村はしきりに点字の本をさわり、パラパラめくっている。
「これ、わかるんか」
「少しわかるようになりました」
洋二は橈骨や尺骨の説明のページを読んで聞かせた。
「漢字はわかるんか」
「いや、すべてひらがなです」
「フーン...ハンディはきついな」
先ほどとは違う口調になっている。
やがて、洋二に向かって田村は言った。
「職業病の中でも、肩頚腕症候群にはもっとも効果があるのが
針灸マッサージや。だけど、どこの病院でも物療科は
儲からないからやめていくのが現状だ。私らに代わって、治すのは君らの仕事。
今度は治療する立場で、がんばってや」
田村は話しながらも、まだ点字の本をなでている。
「それはそうとあの時、労災認定を勝ち取った頸肩腕の人たちも
そろそろ打切りにしようと思ってるんや。
これ以上、長引かせても不利だからな。
はやいとこ、一人前になって帰ってきや」
病院を出ると、西日はようやくかげりはじめていた。
肩頚腕症候群の12人の顔が、目に浮かんでは消えていく。
彼女らのためにもやるしかない。
セピア色の夕日に向かって洋二は歩き出した。
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